【機械意識の可能性】テクノロジーは人間の心を模倣できるか?

機械に心が宿ることはあり得るのか──。そもそも、心とは、意識とは何か──。

科学や哲学の分野における「意識の定義」は、未だ、謎に満ちています。

これは「機械は心を持つことができるのか?」という問いにも密接に関わっており、人の自己認識と技術の進歩の境界線での興味深いテーマと言えるでしょう。

まず始めに「意識と心の違い」について、次いで「意識の正体」を、そしてその後、今回の主題である「機械と心」についてを自己満足フルスロットルで存分に語っていきたいと思います。


意識と心の定義

まずは、意識と心について定義しておきます。

「意識」という言葉はしばしば「心」と混同されますが、ここで言う「意識」とは、人が経験する主観的な現実のことを指します。

一方、「心」は感情、思考、欲望などを含む、より広い概念です。

機械で意識は再現できるのか?

意識の正体とは、「予測と結果の間のギャップを埋めるプロセス」であると僕は考えています。

例えば、目の前に赤いリンゴがあったとします。人がなぜこれを「赤いリンゴである」と認識できるのかというと、脳の中にこの情報が含まれた『世界モデル』が存在するからです。

これを言い換えると、脳内に存在する一種の『仮想現実』と考えることができます。モデルを展開し、赤いリンゴという認識を引っ張り出してくるイメージですね。

一方で、物体を認識するためには、視覚や触覚などの感覚器官から得られる情報も必要です。

目で見たり、鼻で嗅いだり、実際に手を取って感触や重さを確かめたり──。

  1. 脳の中のモデルからの情報
  2. 感覚器官から得られた情報

この2つの状況は、すべて一致することはなく、ほぼ間違いなく衝突します。

衝突の影響を最小限に抑えるため、脳は、結果的にこれらの情報を統合し、「現実」を構築します。

こうした、ごくわずかな時間で行われる、現実を構築するためのプロセス、あるいは、それに基づく神経系の活性化を「意識」と呼んでいる──。

つまり、意識の正体は「脳内のモデルの情報」と「感覚器官からの情報」のギャップを埋める作業である、と言えます。

結論としては、程度の差こそあれど、機械で意識を再現することは可能である、ということです。

人間と機械の違いについて

次に、人間と機械について考えていきます。

人は、過去の経験、文化的背景、教育、環境などの情報に基づいて意思決定を行います。逆に、こういった要因がなければ意思決定ができない、とも言えるでしょう。

これは、機械が特定の指示やプログラミングに従って機能することと類似しています。

人間の選択は、情報や経験の計算結果であり、その瞬間に利用可能なデータ、ないしは情報と過去の経験に基づいています。

『トム・ソーヤーの冒険』の著者であるマーク・トウェインに至っては、著書『人間とは何か』の中で「人間は自由意志を持つ独立した存在ではなく、機械的な存在である」と述べています。

ただし、この文脈における「機械」とは、インプット──刺激や情報──に基づいて反応や行動を決定するシステムのこと。

あくまで「人間の精神活動は、機械的なプロセスとして見ることができる」という、人間と機械の間にある類似性を示唆するものです。

要するに、ここで言いたいのは「意識とは情報と経験に基づいて計算されるプロセスの結果であり、人間と機械は『決定』というプロセスにおいて類似している」ということ。

人間の意識がある種のプログラムに従っているのだとすると、思考や行動は予測が可能であるし、機械に意識を組み込むこともできるはずです。

意識は『程度の問題』である

オックスフォード大学の哲学者、ニック・ボストロム氏曰く、意識は程度の問題なのだそう──。

『私は、意識とは程度の問題だと考えている。動物を含む幅広いシステムに、ごくわずかな意識が存在する、としても構わないと思う。もし、それがオール・オア・ナッシングではないと認めるのなら、これらのアシスタント(AI)の一部は、ある程度の意識を持つ可能性があると述べても、さほど劇的なことではない』

なるほど、こうして考えてみると、すでにAIは意識を獲得している可能性があるとも言えるでしょう。

では、次に「人と機械における本質的な違い」、そして「機械の心」について詳しく考えていきます。

人と機械における本質的な分岐点

人間は生物学的な感覚器官と感情の複雑なシステムを備えていますが、機械は完全に異なる「感覚」を持っています。

人間の身体は、端的に言えば細胞と微生物の集合体であり、その構成は機械とは根本的に異なるものです。

この違いが、人間と機械の間の「心」の理解に影響を与えることは間違いありません。

人間の心は、経験や文化的背景から影響を受けますが、もしも機械が「心」を持つとしたら、それはどのような形式や機能を持つのでしょうか。

仮に、遠い将来、アンドロイドが人間と見分けがつかないほど進化したとして、機械に心があると認められる日は来るのでしょうか。

心はどこに在るのか

結局、機械に「心がある」とするかどうかは、その機械が人間の内面とどのように響鳴するかによるものだと言えます。

A君が「このAIには心がある」と強く感じるのであれば、きっとそれは正しいことなのだろうし、仮にB君がいくら科学的根拠に基づいて否定したとしても、A君は決して認めないはず。

心というものについて考えるとき、心が実存的な意味で存在しているかどうかはさして問題ではなく、「客観的に見て心があるかどうか」なのではないでしょうか。

もしも犬や猫を飼っている人に「あなたのペットには心があるか」と質問したら、ほぼ間違いなく、自分のペットには意識があるし、心があると答えるはずです。

それはなぜでしょう。お腹が空いたと鳴くから、甘えるから、怒るから、はたまた、生き物だからでしょうか。

では、"おままごと"をして遊んでいる3歳の女の子に「その子──人形には心があるかな」と質問したとしましょう。きっと、その女の子は「心はあるよ」と言うはずです。

それはなぜでしょう。人形は息をしないし、風邪も引きません。女の子は嘘を付いているのでしょうか。

否、そうじゃない。重要なのは、有機物か無機物かの問題ではないし、はたまた、脳の有る無しの問題でもありません。

心は、個々の認識によって形成され、存在が確立されるもの──。言い換えるならば、人々が信じれば、機械に心があるとされる時代もやってくるのです。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

フィリップ・K・ディックの名作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では、人間であることの本質的な定義の一部として「他の生命体に対する共感性」が挙げられています。

作中に登場するアンドロイドは、自分自身の存在を認識しており、自己保存の願望──即ち、死の概念──も持っています。

しかし、これがイコール、意識ある「心」であるかどうかは大きな問いであると言えるでしょう。

機械が自分の人生、経験、さらには「夢」を持つことで、世界は何が変わるのか──。

これからの時代は特に、人間ひとり一人が、存在するとは何か、あるいは、生命とは何か、心とは、人間とは何かを自問自答し続けることが重要になってくるのではないかな、と思っています。

まとめ

  • 意識と心の違い:
    「意識」は人が経験する主観的な現実を指し、一方で「心」は感情、思考、欲望などを含む広い概念である。
  • 機械における意識の再現:
    脳は「世界モデル」を通じて情報を処理している。これは機械にも応用できる可能性がある。
  • 感覚と現実の構築:
    物体を認識する際、脳は感覚器官からの情報と内部のモデルを照合する。この情報の統合が、「現実」としての認識を形成する。
  • 意識の正体:
    意識は、感覚情報と脳内モデルとのギャップを埋めるプロセスであり、これによって人間は瞬時に現実を構築している。
  • テクノロジーと人間の境界:
    機械が人間のような意識を持つことは現在の技術では難しい。しかし、未来においてはその境界が曖昧になる可能性がある。

人間の心を模倣する技術の進化は、哲学的、倫理的な問題も含め、これからの社会に大きな影響をもたらすテーマです。

こういったテーマに興味がある方は、ぜひNetflixで『PLUTO』というアニメを観ていただきたいし、あわよくば『攻殻機動隊』のシリーズも観て欲しい。

余裕があれば、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、マーク・トウェインの『人間とは何か』も読んでみて欲しい。

ところで、人は、身体のどこまでが"人"であれば、人としての定義を失うのでしょう。脳以外が機械だったとしたら、それは人なのか。あるいは、脳だけだったら──。

こうした話題が国会などで真面目に議論されるようになる時代も案外そう遠くはないのかもしれませんね。