日本人は無宗教の人が多いと言われてますが、実は、「宗教」が生活に深く根付きすぎているために、宗教という概念を感じないだけなのかもしれません。
もともとキリスト教のお祭りであるクリスマスを満喫したかと思えば、新年は神社や寺社に初詣に行って神様なり、仏様なりに祈ったり、お願い事をしたりするわけですからね。
信仰心があるかないかはともかくとして、そういう習慣があることを宗教と呼ぶのなら、それは無宗教ではなく、むしろ、すっごく宗教してるってことなんじゃないでしょうか。
ここ数十年でテクノロジーの発展は急速に進んできました。そして、人類の歴史は宗教とともに歩んできた、と言っても過言ではありません。
こうしたときに浮かぶのが、「進化した科学技術は宗教を否定するか?」という疑問です。
科学と宗教は寄り添いあってはならない
今年の夏頃から京極夏彦氏の「百鬼夜行シリーズ」にハマってまして、ようやっと4作目となる『鉄鼠の檻』を読み終わりました。
これまで京極氏の小説を読んだ限り、一貫して「科学とは何か?」という命題があったように思います。
そして、今回読んだ『鉄鼠の檻』は、記事のテーマ通り、「宗教と科学」が主軸として展開される長編推理小説・妖怪小説です。
ストーリーを楽しみながら、科学とは何か、はたまた宗教とは何かということを学べる、文学小説兼教科書と言っても大げさではないでしょう。
物語の中でも最も重要な人物として描かれる中禅寺秋彦——通称「京極堂」は、科学と宗教に関してこう言っています。
僕はもともとキリスト教系の家に生まれた子供だった
僕はもともとキリスト教系の家柄に生まれた子供だったので、物心ついた頃には、すっかり「聖書」というものが生活の一部になっていました。
まあ、中学生頃から「あれ? なんかおかしくね?」と思い始めて、今となっては完全に離れてしまいましたが。
その頃から僕が子供ながらに感じていた微妙な違和感、それが『鉄鼠の檻』という小説の中で明快かつ明晰な文章によって代弁されていたように思うんですよ。
【宗教2世】元エホバの証人15年間の苦悩|精神科でトラウマ診断されました
科学の発展は宗教を否定するか?
今後、さらに人類はテクノロジーを発展させていき、やがて多くの人がリアルタイムで、今まで隠されていた真実を文字通り「手にする」ときが来るかもしれません。
信じるか、信じないかはあなた次第——という話ではありませんが、ある意味で科学の発展によって否定できてしまう宗教も出てくると思うのですよ。
ただ、それはあくまで"否定できる"というだけであって、「科学が証明したから、この宗教は嘘っぱちだ」ということにはなりません。
京極堂も『鉄鼠の檻』の中で言っている通り、「科学は科学、宗教は宗教」なのです。そこを混ぜて考えてしまうと、お互いに首を締め合うことになりかねないわけですね。
京極堂は断言した。
「ただ科学的思考と云うのは凡てが証明され、明白になっていない限り、結論を出してはならないものだ。いずれ凡てが解明できると希望的観測を述べるならいいが、証明できぬ部分まで含めて解ったような顔をするのは奢りだからね。科学的思考に依って理解しようとするなら、現状判らないことは判らないままに棚に上げておくしかないのだと云う腹の括り方をしなければ嘘だ。理論的に正しくたって推論は推論で結論ではないのだからね。それじゃあ据わりが悪いと云うのなら、その時は一旦科学を捨てるしかない。(以下略)」3
まとめ
『鉄鼠の檻』は、1,000ページ超えのレンガみたいな小説ですが、ストーリーを楽しみながら科学と宗教の考察ができる良書です。
主に禅宗に関した内容になってますが、これをきっかけにいろいろな宗教を勉強してみると、世界を取り巻く情勢がまた違ったものに見えるはずですよ。