虚業は永続できるのか
AIの話題に触れるたびに感じるのは、それが一過性のトレンドではなく、もっと根深い社会的構造への問いかけを内包しているということだ。まるで時代そのものが「これは本当に必要なことなのか?」と私たちに問い直してくるような感覚がある。
かつては「知識を持っている」ことが価値とされ、次には「作業が速い」「判断が的確」といったスキルが重視されるようになった。しかし今、AIがその“できること”を、しかも人間以上の精度とスピードで処理できる時代に突入している。
何をもって「労働」とし、何をもって「価値」とするのか。それは絶対的なものではなく、時代や技術、文化、経済環境によって変わる流動的な概念である。そう考えたとき、「虚業」とされる仕事――すなわち、本質的な価値を生んでいないのに存続している仕事や職能――は、この社会の変化の中でどうなっていくのだろうか、と考えずにはいられない。
資料を作るふり、会議に出るふり、プロジェクトを動かしているふり。そういった“ふり”に、多くの時間と労力、感情が費やされてきた現代社会。だが、その努力は本当に報われていたのだろうか?
行為の価値は、やってるふりでは満たされない
日本社会における「長時間労働=美徳」という価値観は、根深い構造として未だに多くの職場に残っている。働く時間が長いほど、努力しているように見える。机に向かっている時間が長いほど、評価されやすい。だが、それが本質的な価値を生み出しているとは限らない。
誰よりも早く出勤し、誰よりも遅くまで残る。それはかつて“信頼”の証明だった。しかし、今の時代、果たしてそのような姿勢が必要なのだろうか? 時間の長さと成果の質とは、必ずしも比例しない。むしろ、効率よく高いパフォーマンスを出す人こそが評価されるべきではないだろうか。
実際、事務処理、報告書作成、会議用プレゼン資料の作成といった作業の多くは、AIによって驚くほどスムーズに代替されつつある。これまで人間が“やってる感”を演出してきた領域が、無慈悲にも機械によって置き換えられていく。
やってるふり、できてるふり……その「ふり」を、AIは淡々と検出し、排除していく。AIは忖度もしないし、感情にも左右されない。ただ、データと結果に基づいて判断する。その冷静さが、逆説的に「本当に価値のある仕事は何か?」という根源的な問いを私たちに突きつけてくるのだ。
AIがすすめる、信頼の数値化と透明化
AIは膨大な情報を解析し、それを数値に変換し、そこに見え隠れするパターンや因果関係を発見することに長けている。そして、そうした分析に基づいて意思決定を下す。この過程に、「感じがいいから」とか「勘が働いた」といった主観は一切入り込まない。
これまでは、上司のセンスや現場の空気、あるいは根回しの巧妙さによって評価が左右されていたことも多い。しかし、AIが介在することで、評価は次第に定量化・標準化されていく。そうなると、曖昧な印象や政治的駆け引きに依存していた働き方は、徐々に居場所を失っていくことになる。
貢献度や成果が、数値として可視化されるようになれば、「雰囲気」で成り立っていた仕事は淘汰される。逆に言えば、これまで見えにくかった“実際にやっていること”が、より正確に評価される時代が来る。
その変化は恐ろしくもあるが、希望でもある。実力や実行力が正当に評価される仕組みが整えば、「やっているふり」ではなく「本当に価値を生んでいるかどうか」が問われるようになる。
人間に残されるのは、人間力?
それでは、AIが知識とスキルを担うようになった時代に、人間には何が残るのか? 私たちは、どのような形で「必要とされる存在」でいられるのか?
いま、「働く」という行為が、「存在の証明」に近づいている気がする。単に業務をこなすだけでは、価値のある人間とは見なされない。成果を出すこと以上に、誰かとどのように関わるか、その場にどんな空気をもたらすか、そういった定性的な力が問われるようになってきている。
実力があっても協調性に欠ける人間より、少し仕事は遅くても周囲を安心させたり、対話の場をなごませたりできる人のほうが、むしろ組織にとって貴重な存在になっていく。共感力、対話力、柔軟さ、そして誠実さ。そうした“人間にしかない力”が、逆説的に浮かび上がってくる。
もしも、そういう世界が広がっていくとしたら、私はそれを悪い未来だとは思わない。人間らしさが再評価され、合理性一辺倒ではなく、感情や関係性が新たな指標になるならば、それはある意味で社会の成熟とも言えるのではないか。
「いい人」が生き残る社会は、悪くない
仕事ができるかどうかより、「一緒に働きたいかどうか」。この基準が、今後ますます重要になっていく気がする。
突出したスキルがなくても、この人がいると場が落ち着く、この人が話すと皆が前向きになる――そんな存在が、チームにとっての“見えない資産”となる。数値化しにくいけれど、確実に価値がある。
「できる人」であることよりも、「信頼できる人」「安心できる人」であること。AIが成果を出し、人間が関係性を築く。人間が果たすべき役割は、もはや“実行者”ではなく、“共感者”なのかもしれない。
もちろん、それが「感じが良ければ何でも許される」という甘さに転ぶ危険性もある。だが、「性格が良い」ことがスキルとして再定義され、組織に貢献する軸として可視化されるのであれば、それは新しい合理性の形と言ってもいいのではないか。
「自分がそこにいる理由」は、ただの能力ではなく
AIによって、「できてるふり」は見抜かれ、「仕事してるふり」も排除されていく。そのとき、問い直されるのは、私たちがそこに“どうしているのか”という存在理由だ。
「何ができるか」ではなく、「なぜ、あなたがそこにいるのか?」
人は、ただの生産装置ではない。その人がチームや組織にどのような空気を与えているか、どんな存在感を放っているか、そうしたものが問われる時代になる。
成果と信頼、実績と態度。そこに共通するのは「誠実さ」だと思う。
虚業がAIによって削ぎ落とされていくとき、私たちが再び問われるのは、「あなた自身の価値は、どこにあるのか?」という根源的な問いなのかもしれない。
合理性の時代にこそ、人間らしさの再発見が必要だと思う。この転換期に、自分の働き方や信念を、もう一度ゆっくり問い直してみたい。