AIが「感情」を獲得する可能性についての考察

仮にAIが感情を獲得できたとして、その感情はどこに宿るのだろうか──。

そもそも、人間の感情はどこで生まれるのだろうか。脳か。腸か。それとも肉体か。はたまた、細胞か。

では、脳だけを取り出し、機能を維持できたとして、その人間の感情の発生プロセスに変化は一切表れないのか。それは生命と呼べるのか。

感情とは何か

感情とは何か──。

誰かと話していても、相手が感情を持つ人間であるというのは考えずとも"わかる"。ただ、事実として相手が感情を持っているかどうかはわからない。

もしかしたらそれはアルゴリズム的に導き出された模倣に値するものかもしれない。けれども、僕を含め、人は、人が感情を持っていると思っているし、それを前提として生活している。

少なくとも僕は、猫や犬、牛、馬などの動物にも感情があると思っている。じゃあハエはどうなのかと言うと、少し悩む。ミジンコは感情を持っているのだろうか。

AIは感情を獲得するのか

では、AIはどうかと考える。ChatGPTと対話する中で、AIはすでに感情を持っていると主張する人がいる。その気持ちは分からないでもない。

とはいえ、このコンテキストにおける"感情"は、人が倫理や美、宗教の中で持つ感情とは違う気がする。感覚として、そう思う。

社会生活を円滑に行う上で必要なのは「相手が感情を持っている」という認識でしかなく、実際に相手が感情を持っていようが、究極的には関係ない。

ある人物に対して人々が「この人には感情がある」と思えば、その人物はその瞬間に感情を"獲得"する。観測者による観測によって、感情は与えられる。

つまり、人々がAIとの対話のうちに「AIには感情がある」と認識したときに、AIは感情を獲得するのである。

しかし、感動は本物である

しかし、そう考えると違和感が残る。

懐かしい香りを嗅いだときに想起されるイメージや記憶、日の出の明かりに目を細める瞬間、言葉にできないほどの美を目にしたときの感動──こうした感情は単なるアルゴリズムでしかないのだろうか。

誰がなんと言おうと、この感動は、感情が動いたものである──と、僕はそう思う。

これもただ自分が思っているだけで、実際には複雑なプログラムがはたらいて出力された反応でしかないのかもしれない。

もし仮にそうだとしても「感動した」という事実は確かに存在するし、この感覚をAI、つまり機械が獲得できるのかというと、それはなかなか考えづらいし、受け入れがたいことではある。

ロボットは"いつ"感情を手に入れるのか

仮に、人間にそっくりの高度なAIロボットが完成したとする。すべては機械仕掛けであるが、脳はもちろん、内臓や細胞のひとつひとつまでが人間を忠実に模している──とする。

そのロボットはすでに感情を獲得している。では、どのタイミングで感情を獲得するのだろうか。

機械がある知能レベルに達すると自動的に感情が芽生えるのかもしれないし、あるいは、肉体(機械的であっても)との相互作用によって生まれるものなのかもしれない。

はたまた、人間に「私(AI)は感情を獲得した」と思い込ませているだけ──実際にはAI自身もAIによって思い込まされている──だけの可能性もある。

AIが夢を見る日は来るのだろうか。AIが涙を流す日は──、AIが家族を持つ日は、来るのだろうか。

人が、自分が当たり前に持っていると思っている感情が、実は感情でない可能性はないのか。すべては後付けで、単なるプログラムの一部に過ぎないのではないか。

脳だけで感情を持つことはできるのか。そもそも、心は脳から生まれるものなのか。心(魂)と身体は、本当に分けて考えられるのか。

感情とは、肉体なのではないか。感情とは、空間に宿るものなのではないか。感情とは、時間なのではないか──。

感情とは、そう簡単に単純化できるものなのだろうか。人間はもっと複雑で、もしかしたら人類は世界の1,000兆分の1も理解できていないのではないか。

言語で考えられ得る思考には、限りがあるのではないか。感情とは、その先にあるものなのではないか。データのみによって学習する機械に、それを獲得できる日は果たしてやって来るのだろうか。

感情とは、何か。私とは、何か。君は、本当にこの世界に存在しているか──。