メンタル

人生における「なんか違うな」の原因は"幸せのギャップ"のせい?

生きていると、ふと「なんか違うな」という大きな違和感に襲われること、ありませんか。そう、多くの場合、人生に対して。

この原因は大きく2つに分けられると思っています。ひとつは、信念・感情・行動が一致していない。そしてもうひとつが、自己決定の感覚が薄れている

これらはそれぞれ、認知的不協和理論(レオン・フェスティンガーによる)と自己決定理論(デシとライアンによる)と呼ばれているそうですが、名前はどうでもいい。

要するに、"頭で考えている幸福"と"心で求めている幸福"の「ギャップ」が人生における違和感に繋がっているのではないか、ということです。

人が考える幸福(幸せのスタンダード)は、その大部分が社会的に形成されたものと言っても過言ではありません。果たしてそれが本当に自分の求める「理想」なのかは分からない。

──そもそも僕は、こうした「人は幸福になるために生きているのだ!」という価値観そのものが社会によって形成された幻想とさえ思っていますが。

今回は、幸せのギャップと人生の違和感について考えていきます。

幸せのスタンダード

幸せのスタンダードが分かりやすく設定されていると、多くの人はそこを目指すようになります。

例えば、結婚して子どもを生み育てることが幸せな生き方であるだとか、有名大学を卒業して大企業に入れば幸福であるだとか──。

他にも、ファッション、食品、美容、車、ヘアスタイル、人間関係、仕事、ライフスタイルなど、様々な分野や領域で「これさえあれば幸せですよ」というスタンダード(標準)が用意されています。

スタンダードがあることで、人は決断する労力を節約しつつ、幸せ──それが幻想であるかはともかく──を手に入れることができます。もちろん、経済も回る。国も豊かになる。

しかし、逆にスタンダードから外れると途端に、恥ずかしい奴、ダサい奴、バカ、無価値な人間、マイノリティ、サイコパス、レジスタンス、老害というレッテルを貼られてしまう──。

ゆえに『スタンダードという名の聖域にいれば、幸福、安全、安定。聖域外の人間は、無能でカスだから迫害してよい』というクソみたいな価値観が蔓延してしまうのです。

ひとつ言っておくと、僕は誰かの幸福像を『洗脳乙w』と言って指差して笑いたいわけではないし、『真実に気付いてる俺カッケーw』と優越感に浸りたいわけでもありません。

これは善意でもなければ、揶揄でも、煽りでもない。ただ単に「幸せのスタンダードがあなたの幸せとは限らないよね」というだけの話。

スタンダードの機能不全

少なくとも令和の時代において、幸せのスタンダードは完全に機能不全に陥っています。要するに、スタンダードが溢れ過ぎている一方で、それを満足に達成できない状況に陥っているのです。

スタンダードが有効に機能するためには、大多数の人が同じ方向を向いていることが必須条件です。しかし、今はそうなっていない。スタンダードの暴走が起きているだけ。

この際、幸福が幻想かどうかは大した問題ではなく、本当に重要なのは「人々がスタンダードを幸福と受け入れ、それを実現できる自由を手にしているかどうか」ということです。

働きたくても働けない、結婚したくてもできない、人気者になりたいのになれない、勉強したくてもできない、転職したくてもできない──。

社会から提示されたスタンダードが、ことごとく、実現不可能なスタンダードになっていることが何よりの問題になっていると言えます。

スタンダードを守ることがスタンダードであった人がスタンダードから外れると、さて、どうなるか。

おそらく、ほとんどの人は、劣等感、羞恥心、辛苦、怨恨、遺恨、復讐などの感情が湧き上がり、心理状態が大きく揺れ動くことになります。

自己アイデンティティの危機に直面し、社会からの疎外感を感じるようになるかもしれません。周囲からの信頼を失い、孤立無援の状況に追い込まれる可能性だってあるでしょう。

このような変化は、心理的な不安定さを引き起こし、対人関係においても様々な衝突や誤解を生じさせる要因となります。これこそ、幸せのスタンダードの機能不全。典型的なステレオタイプ。

幸せのギャップを解消する方法

頭と心での幸福像のギャップを解消するためには、大きく2つのポイントがあります。平たく言えば、スタンダードの洗脳から脱し、「幸せの見直し」を行います。

批判的思考:そもそもスタンダードなんてなくね?

『そもそも、スタンダードなんてないだろう』という批判的思考を持つことは、幸せのギャップを解消する上でとても役に立ちます。

これは、ひと言で表すと、「物事を批判的に捉える」ということ。"批判"と聞くと、もしかしたら悪いイメージを持つ人もいるかもしれません。

しかし、これはクリティカルシンキング(批判的思考)──つまり、「物事の本質を見極め、論理的に思考すること」という意味合いであって、"否定"とはまったく異なるものです。

『本当に"普通"なのか?』『本当に"必要"なのか?』という具合に『本当に"~"なのか?』という方程式に当てはめることで、これまで自分の中に形成されてきたスタンダードをぶち壊すわけです。

例えば、「ブランド品を身につけるは私を幸福にする」といったイメージがあったとすると、まずは「ブランド品を身につけることは、本当に私を幸せにするのだろうか?」と考えてみる。そして、それは「なぜなのか?」を考えてみる。

そうすると、ブランド品を身につけると自分が強くなった気がするとか、ブランド品を身につけると人よりも優れた存在なのだと実感できるとか、ひとまず「幸せの理由らしきもの」が見えてくるでしょう。

そうしたら、また「それはなぜなのか?」と問う。自分に自信がないからなのか、単に人を見下したいからなのか、はたまた他人からナメられないようになのか、あるいはお金を使うことそのものが幸せと感じるのか──。

ここで「他人軸」からなる理由が多い場合は注意が必要と言えます。つまり、周囲の人々がどう思うか、どのように見られるかによって定義された幸福は、あなたを幸せにしない可能性が高い

他人からの承認や受け入れを得ることが目的になっている場合は、十中八九、それは「自分以外のスタンダード」です。ただのゴミなので、すぐさま捨てたほうがよろしい。

幸福1日体験

幸福1日体験は、言わば、イメージの中の幸福像の一部を1日だけ体験してみるというもの。要するに、自分の思い描く幸福が本物かを確かめるために少しだけでも「コスト」を払って実現してみるのです。

もちろん、これは短期的な体験であって長期的な幸福とは異なるので、有効になる場面は限られ、実行可能性も低い場合があります。でも、何かのヒントにはなるはず。

例えば、豪華なホテルでの一泊、高級車の試乗、創作活動体験、海外旅行、乗馬、キャバクラ、ひとつも予定がない日、旅行など──。

「手が届かないけど、きっと実現したら幸せなんだろうな」と思われる体験を、1日などの短期間限定で実現することによって、それが本当に自分の望む幸福かどうかを確かめることができます。

大切なのは、実際に体験することで初めて見えてくる自分自身の感情や反応を1ミリでも理解すること。想像では完璧に思えたことも、実際にはストレスや不満を感じることも大いにあります。

実体験

イメージの中の幸福が本当に「自分の追い求める幸福」なのかを見極めるためには、何よりも"体験"が重要です。お金なり時間なり労力なりを支払って"感覚"を味わう必要がある

僕自身、これまでの30年の人生経験が、様々なスタンダードの見直しに役立っています。

例えば、バンドマンの経験からは、自分はそれほど人気者になりたいわけでもなく、人前に率先して出ていくようなことが得意ではなかったということ──。

自転車旅や留学、海外移住、アメリカ横断の経験からは、自分はそれほどノマド的な生活が性に合っておらず、どちらかというと環境的に安定した静かなライフスタイルを好むということ──。

ブロガーやデザイナー、フリーターなどを掛け持つワーカホリック時代やツアー事業展開の経験から、自分はそれほど額面上の数字(売上)を増やすことが楽しいわけではなかったということ──。

つまり、僕はこれまで「人気者になれば、あるいは、お金持ちになれば幸せになれる」という自分の軸とは異なる軸で幸せを測っていたし、「自由な生活=いろいろな場所を旅しながらお金を稼ぐこと」という自分の価値観とは異なる価値観の中で生きていた──、そういうことになるわけです。

屋上にプールがあるホテルで暮らしても毎日泳ぐわけでもなく、建物の一階にジムがあるからといって通うこともなく、毎晩のクラブ通いで踊り狂おうとも気分は晴れず、お金を払って可愛い女の子と話すことに大した価値を見い出せず、斉藤和義を大音量で流してオープンカーでハワイを一周しようと、どうやらそれは本当に僕が理想とする暮らしではなさそうだぞ、と──。

実際、そのどれもが「自分のイメージする幸福像」であったのは間違いないものの、実際にその一部でも体験してみると『うん、何か違うな』ということが肌感覚として分かるというか、なんというか。

要するに、僕の中に当たり前にあった幸福像の多くは幻想であったということです。もっと早くに気が付いていればよかったのですが、その入口に立つまでに30年もかかってしまいました。

しかし、今後の人生でもっとも若く、賢いのはいつだって"今"なので、このタイミングで気付けたことに感謝せねばなりません。フ××ク・ザ・幻想の幸福。まあ、どデカい金を動かして遊びたいなとは思うけど。

結局、体験に勝るものなし

結局のところ、「自分の中の幸福像が幻想かどうかなんて気にする必要はなく、今が幸せなら──たとえそれが"偽物"であっても──それでいいじゃあないか。頭で考えている幸福と心で思っている幸福を、体験を通して、一致させていこうじゃあないか」と、そんな感じの話でした。

自分の生活とか、考え方とか、生き方とか、価値観とか、そういった部分で少しでも違和感を感じているなら、それらは大抵、誤ったスタンダードのせいなので、できるだけ早いうちに洗脳を解いたほうがいいよな──と、そんなことをつらつらと考えていた次第です。

  • この記事を書いた人

あめぎ

宗教2世クソ生活15年→いじめ被害3年→歌舞伎町バンドマン→2年でブログ収益50万円→自転車日本一周の途中でセブ島留学→海外起業→アメリカ大陸横断→富士山登頂→うつ病と複雑性PTSDの療養→

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