生きづらい人は、過去に遡って「ちゃんと嫌いになる」ことから始める

生きづらいと感じている人は「優しい」と言われる人が多い──。

おそらく、生きづらさを抱えながら生きている人は、周囲から「優しい」という評価をよくされるのではないでしょうか。

優しさにもいくつかあるとは思いますが、ここで言っているのは、特に「人から言われるでもなく"できる"、あるいは"気付く"ことのできる優しさ」。

優しいという表現は、社会一般的にはポジティブな意味合いで使われることが多いですし、長所として挙げられる要素のひとつでもあります。

しかし、生きづらい人にとっての「優しい」という評価は、どちらかというと素直に受け取れないもののひとつでもあると僕は思うのです。

なぜなら、本人は別に優しくしているつもりはないから。

それは単に、人や周りに合わせすぎてしまうとか、共感力や感受性が強いがために人にあまり強く言えないとか、そういった面が「優しい」という印象の要因になっているに過ぎない。

そして、そういった傾向のある人は、往々にして、以下のような特徴を持っている人が多いです。

長所⇔短所
我慢強い⇔自分の感情や欲求を抑えがち
完璧主義⇔自分に対するプレッシャーが過大
現実主義⇔ネガティブ思考で自己評価が低い
深い思考力⇔些細なことにも不安を覚えてしまう
真面目⇔柔軟な対応が苦手で自分の価値観を疎かにしがち

要するに、様々な要因が絡み合った結果、自分の意見や感情、欲求、価値観の優先順位が低くなってしまいがちということです。

それがあたかも、自分の意見を通すよりも他人を立てたり、複数人の関係や意見の調整役となったりすることが多いために、ある種、自己犠牲的な精神を持つ者の称号として「優しい人」を与えられるのではないかな、と。

しかし、そういった気質を持つ人にとってはそれが普通であり、当たり前にできることなので、逆にそれができない人の気持ちが理解できない──。

ゆえに、「優しいという評価を素直に受け取れない」という不思議な気持ちになってしまう側面もあるのだと思います。

「空気を読む力」はいつ身に付くのか?

上記に挙げたような傾向を持つ人は、おそらく、幼少期にはその兆しはあったのではないでしょうか。

そして、そのきっかけが"自分に害のある形"で発現された人ほど、空気を読む力が異常に発達しているという側面もあるのかもしれません。

少なくとも僕は、物心が付く頃から「過剰に空気を読む力」を身に着け始めていたように思います。

親や教師、周囲の大人の微妙な表情の変化を読み取る能力──自分を"良い子ちゃん"に見せる技術──は、子どもながらに抜群にありました。

そもそも僕は厳格な宗教2世として育てられていた背景があるので、特に、家や宗教の集まりでは、自分を完全に殺すように生きていましたね。

そうでないと、怒鳴られるし、引っ叩かれるので。だから、そう──小学校に入る前ぐらいには「恐怖による自律心」は芽生えていましたように思います。

人を嫌いになれない人、あるいは人を嫌うことが悪だと思っている人

僕を含め、周囲から「優しい人」とされる人間は、おそらく"ある問題"を抱えている人が多いと思います。

それは、人を嫌いになれない、あるいは、人を嫌うことが悪だと思っている──ということ。

空気を読みすぎてしまう能力は、換言すると「自分を偽る能力」や「自分を演出する能力」とも言えます。

これは、あくまで自分の本来の性格や意見を抑え込んだ結果と言える一方、自分に"嘘"を付き続けてきた結果と捉えることもできるでしょう。

「空気を読む力がある」は、一見すると社会生活を円滑にするための適応戦略と見なされることが多いかもしれません。

対して、「空気を読みすぎる」というのは、単なる過剰反応であり、痙攣であり、暴走に近いものでもあります。

嘘は付き続けると真実になる──。これは言い得て妙で、ずっと"良い子ちゃん"をやっていると、本来の性格がどうであれ、時間とともに自分の中に"良い子ちゃん"が育っていくわけです。

真面目で正義感が強く、倫理観がしっかりしている人ほど、良い子ちゃんを脱することが難しくなるのも、それが理由な気がしています。

これまでの人生を振り返ってみて、自分が良い子だった、あるいは良い子になろうとしすぎていた節があるなら、一度、立ち止まって考えてみたほうがいいかもしれません。

まずは過去から「ちゃんと嫌う」

今からできる対処法としては、過去に遡り、自分がちゃんと"嫌えて"いたのか、あるいは"感情を素直に受け取っていたか"を確認するという方法があります。

つまり、過去の出来事や出会った人に対して、ちゃんと当時の感情をラベリングする──という作業を行なうのです。

良い人間であろうとすることは素晴らしいことです。しかし、それは自分のことを疎かにしてよい理由にはならない。自己犠牲を伴う親切心は、行き過ぎると毒になる。

どんなに良い人間であっても、本能的、あるいは直感的に嫌悪感を感じることはあります。一切そんなことがないと言い張る人がいたら、それはよほどのバカか、勘違い、または宇宙人の類です。

良い人間であろうとすることと、人や出来事に嫌悪感を抱くこと、この二つは両立してもよいのです。

「過去と向き合う」とはどういうことか

大事なのは、感情をいかになくすかではなく、そのときの感情を認めたうえで次どうするか。

今や未来を変えることは難しいかもしれませんが、過去の”認識"ならいくらでも変えられるじゃないですか。タダだし。5分あればできるし。

『あのときの体験は自分の中で辛いものだったけれど、今になって思うとそんなに大したことなかったな』と考えるだけで、いくらか気分は楽になる。

怒り、苦しみ、嫌悪、怨み、妬み、嫉妬──。なんだっていいけど、過去の、特にスタックポイント(固着点)になっていることの認識を今一度考えてみることは、非常に役に立ちます。僕の場合はたまたま「過去の嫌悪を再確認する」が有効であっただけ。

例えば、『あの頃の母親は心の底からクソだったな。自分は怒りや恐怖を感じていたし、無力感でいっぱいだった』とか、『あのとき違和感を感じていたのは、アイツが差別主義者だったからか』とか、『よく考えてみれば嫌な奴だったな。なんで無理して付き合っていたのだろう』とか。

そうやって、今の自分から見た過去の自分を、冷静に、じっくりと観察してみる──。

それは、多くの場合、思い出したくもない「辛い記憶と対峙する地獄の時間」になります。それだけは間違いなく言えます。でも、それはきっと「意味のある痛み」だ。

どれほど深い傷でも、いつかは折り合いをつけて、苦しくても生きていかねばならないわけです。別に、上に行こうとか、前に進もうとか、そういうことを言いたいわけではない。「楽に生きれるならそっちほうがよくね」っていう、そういう話。

「嫌われる勇気を持とう」とか「他人は君のことをそんなに見ていないよ」とか「自分らしく生きよう」とか、そういうアホみたいなクソアドバイスはガン無視でいいです。こちとら、そんなことは分かってんだよ。分かってるけどできないから苦しんでんだよ。

そういった"実践編"はもっとずっと後。まずは、過去の感情の認識と、それによって生まれている認知の歪みを直すことから。「過去と向き合う」って、たぶんそういうこと。

プロの力を借りる選択肢

こうした「過去の嫌な記憶や出来事、理不尽に対して改めて認識したりラベル付けを行い、認知の歪みを見直すプロセス」は、認知行動療法(CBT)の一環としても行われている手法なので、効果は期待できると思います。

特に、うつ病や不安障害、PTSD(心的外傷後ストレス障害)など多様な心理的問題の治療に有効であるとされています。

ただし、専門の治療者による指導のもと行われたほうがよいものでもあるので、可能であれば、きちんとサポートを受けたほうがいい。

僕の場合、専門のカウンセリングを受けながら、認知行動療法や認知処理療法を一人でも実践できるように勉強していましたね。

一度、その技術を身につけてしまえば、この先の人生ずっと役に立ちます。僕としては、生きづらい人は一度こういった分野を勉強してみることをおすすめしたい。

最後に、僕がカウンセリングを受けていた時期、先生から勧められた認知処理療法のを紹介しておきます。

トラウマを抱えている人向けの本ではありますが、普段の些細なトラブルや嫌な出来事にも十分に応用可能な内容なので、生きづらい人、あるいは繊細な人は学んでおいて損はないものだと思っています。