ITクソつまんなくなった。という記事を読んで、ふと「これからはこういった強い悲しみと怒りを表現したような記事が増えていくんだろうな」と思うと同時に、こうした記事がもっと増えていくべきだとも感じました。
記事の要約
なんというか、この記事の内容を簡単にまとめると、
- 生成AIのつまらなさ
- IT業界のビジネス偏重
- 技術の楽しさの喪失
- 未来への絶望
の4つに集約されるような気がしていて、ざっくり要約すると、
「エンジニアが技術者としてのアンデンティティを失っていくことへの強い悲しみと怒りを表現した記事」
って感じ。
「技術そのものが楽しくてエンジニアになったものの、今はビジネス視点がないと価値がない」といった状況に対する違和感──。結局、求められる人材は技術者ではなくて、ビジネスを理解した技術者であって、それに適応できない者は淘汰されていくという厳しい現実──。
特に以下のポイントが重要だと感じましたね。
- 生成AIが進化し、高品質な絵や音楽が作れるようになった当初は感動したが、結局「検索ワード入れてググるのと同じ感覚」で飽きてしまった。
- プロンプトエンジニアリングの話は、「優秀なAIをどう働かせるか」という人材マネジメントの話と本質的に変わらないと感じた。
- 「アーキテクチャが──」「保守性が──」といったエンジニア視点の議論よりも、「動くからリリースしようぜ」的なスタンスのほうがビジネス上強い。
- もはやGoogleやAmazon、MicrosoftのAIを組み合わせるだけで、サービスが作れてしまう時代。
- これからは「社会の需要を読める人間」「営業活動ができる人間」以外は不要な時代。
- 例え能力が低くても、ビジネスアイデアを披露できるやつが重宝される。
- IT業界に入ったのは「対人コミュニケーションを避けたかった」からなのに、結局ビジネス力が重要になっているのは皮肉だ。
- かつてはAWSやk8s、TypeScript、IoTなどに触れるのが楽しかった。
- しかし、今はそういうことをやっても「ダサい時代」になっていると感じる。
アンデンティティを失っていくことへの強い悲しみと怒り
プログラミングの話でいうと、やはり方向性としてはノーコード寄り──分かりやすく言えば「直感的な操作でシステムを構築できる仕組み」──というか、エンドツーエンドでアプリ開発や設計が完結するようなコンセプトが主流になってきていますよね。
言い換えれば、以前にも増してプログラムを書くこと自体の価値が下がっていて、必要な機能を素早く提供できることがフォーカスされるようになっている──。
これって何もIT業界に限った話じゃなくて、あらゆるドメインで起こりつつある現象なんじゃないでしょうか。
たとえば、アートの世界ではAIがイラストや音楽生成を行っていて、プロのクリエイターでさえ、そのスピードと量に圧倒されつつあるわけですよね。法律や医療分野でもAIがアシスタントとして業務を代替し始めているところもあって、専門知識の独占っていうアーキテクチャが崩れつつある。
こうした流れの中で、多くの人が「自分のスキルや知識って価値あるんか?」と疑問を持ち始めるのは至極当たり前のことで、これまで時間をかけて磨いてきた技術がAIや自動化ツールに代替されることの喪失感は誰しもが感じるであろう感情じゃないですか。
それが積み重なることは、個人レベルを超えて、社会全体のアイデンティティの危機に繋がるものなんですよ。
かつては「コード書くの楽しい!」とか「新しい技術楽しい!」といった感情が原動力になっていたのが、今ではビジネス視点がないと価値がないとされる時代になりつつある。
この変化を受け入れられる者とそうでない者との間に深い溝が生まれ、当然、取り残された側はルサンチマンを抱くことになるわけです。そして、その虚無感や怒りは、かつての新型コロナウイルス以上に強い伝播力を持って社会に広がっていく──。
なぜなら、これは個人の問題じゃあなくて、社会の仕組みそのものが変わることに対する本能的な拒絶反応に近いから。知能労働の機械化が進むスピードは、過去の産業革命とは比べ物にならない。人間の心は、置いてきぼり。
もっと分かりやすく言うと、AI時代は、技術を極めるといった方向性が、もはや保証されたキャリアでなくなるってことなんですよね。それよりも、むしろ技術を使って「何をするか」が問われる時代になっているんです。
AIによってスキルの価値が揺らぐ中で、個々人がどう生きるのかという問いは、これからさらに大きなものになっていくでしょうね。ぐらぐらな、社会。ぐらぐら、アイデンティティ。
強い悲しみと怒りの表現方法を持たない人間たち
ただ、自分が思うのは、この記事の筆者のように、文章という表現方法によって自身が感じている鬱屈とした強い悲しみと怒りの表現方法を持っている人は実は少数派な気がするんですよね。
人によってはその表現方法が絵を描くことだったり、曲を作ることだったり、何か、そういった表現としてのアウトプット手段であるわけです。
ところが、これまでそういった手段を取る必要性がなく、言われたことを言われた通りにこなし、歯車となって働くことで社会に真面目に貢献してきた人間ほど、こうした「怒りや悲しみを表現する」スキルが育っていない可能性がある。
人類、どちらかというと原始的な脳──システム1優位の爬虫類的な脳のほうが強いので、強い感情がわっと湧き上がるのは自然なことではあるものの、こと現代社会においては、その必要性って比較的低かったと思うんですよね。特にアイデンティティの喪失などの根本に関する事柄に関しては。
ところが、AIの進化によって変化に適応できない人間が増えてくると、突然、強い悲しみや怒りを感じたとき、それらをどうやって処理したらよいか分からなくなってしまうと思うんですよ。その方法を知らない。でも感情は吐き出さなくてはならない。だから多くの人は、SNSであさっての方向に向かって可能な限りの罵詈雑言を並び立てているとも思うんですよね。
いろんな複雑な感情を自分の中で処理しきれないから、それらを圧縮し、「バカめ」といった短い出力でしかその感情を表現できない。苦しい。圧縮して出てきた言葉も、自分の感じていることの全てを内包しているわけではないから、自分の中に"感情のカス"がどうしても残ってしまう。だからまた吐き出す。「クソが」。それでもやっぱり残ってしまう。
そういった意味でいうと、ChatGPTのようなチャット型に特化したAIが出てきたのはとても良いことだと思うんですよ。拙い言葉でもAIは察してくれて、言葉を補強してくれるので、なんとなく自分の言いたいこと、感じていること、伝えたいことを代わりに「あ、こういうことね」という形で文章として提示してくれる。これによって感情の消化が上手くできている人は着実に増えていると思います。
とはいえ、AIを通すと良くも悪くも自分の考えや感情が「ならされてしまう」ので、そこでまた新しいフラストレーションを溜め込んでしまう可能性はありますが。
問題は、そういった強い負の感情をきちんと自分で処理し、適切にコントロールできるかということ。これから社会全体がアイデンティティの危機に陥っていく中、それが可能かどうかがこれからの時代を生き抜く重要なカギになっていくはず。