一生、遊んで暮らす。そんな人生に憧れていた時期もありました。
しかし、実際に「遊んで暮らす生活」を5年ほど続けた結果、最終的に我慢できないほど飽きてしまい、驚くほど毎日がつまらなくなりました。
「遊びの解釈」は人によって違うとは思いますが、ここでは「思いっきりアニメを観たり、ゲームをしたり」といったニュアンスで話しています。
床に寝そべり、ポテチとコーラを横に構えながら、据え置き型のゲーム機を常時可動させつつ、スマホで延々とTwitterをやっているような毎日のことです。
誤解を恐れずに言ってしまえば、引きこもりの生活そのものであり、ニートという生き方そのものであり、責任も、仕事も、あらゆる人間関係も存在しない日々のことです。
「毎日が日曜日」という天国も、長く居続ければやがて地獄になるのです。
金がないのに「遊んで暮らす」をやってみた結果
22歳のクリスマスイブに起業し、自営業(フリーランス)として働くようになって数年──。
ブログアフィリエイトと投資(株式や暗号資産など)がたまたま当たり、毎月、本当に何もせず、半自動でお金が入ってくるようになった時期がありました。
仕事を一切せずにお金が入ってくるので、いつの間にかアフィリエイトも、投資もやめてしまい、ただただコンテンツを消費するだけの日々が始まりました。
そしてある日、毎月入ってくるお金がストンと激減してしまったのです。
しかし、もうその頃にはすっかり「仕事のやり方」を忘れてしまい、作業に対するモチベーションもすでに空っぽになっていました。
結果、「遊んで暮らす」という習慣のみが残った「金のない引きこもりニート」が完成しました。
幸い、実家暮らしであったため生活費はほとんどかからなかったのですが、それがかえって「働いて金を稼ぐ」という思考を先延ばしにしていました。
「まあ、金ないけど、なんとかなるでしょ」「本当にヤバくなったら考えよう」と考えていたのです。
貯金がなくなるまで消費ざんまい
すっかり「遊んで暮らす生活」が身についてしまっていた僕は、もはや「働いて金を稼ぐ」という思考回路がすっぽりと抜け落ちていました。
毎日のように深夜までゲームをやり、1日4シーズンのペースでアニメ・映画・ドラマを倍速視聴で消化し、寝たいときに好きなだけ寝て、目が覚めたらそれが何時だとしても「おはよう」と言う──、まさに「毎日が日曜日」な状態でした。
そんな生活が3ヶ月、半年と続き、もはや「部屋の中だけで消化できるコンテンツ」に限界が見え始めた頃、精神に大きな変化が起きました。
焦燥感、劣等感、悪夢、不眠、抑うつ状態、思考力低下、集中力低下などの症状が一気に現れたのです。
これまではコンテンツを消費することで見なくて済んでいた、闇──すなわち、仕事してない、金ない、いい歳して実家暮らし、独身などといった悩みが「ドカァッ!」と脳天を直撃し、昇天しかけ、チビりました。
そして、思った。Netflix、解約しよう──。
何にせよ「お金」は必要
実家暮らしであろうとなかろうと、引きこもりであろうがなかろうと、ニートであろうがなかろうと──。
何にせよ、お金は必要です。収入源を断ち、ひたすら「遊んで暮らす」を実行していると、いつか必ず「あ、ヤバい」という瞬間が来ます。必ず、です。
「欲しいゲームが買えない」
「このままじゃあ結婚できないな」
「このままだと腐った人間になってしまう」
何を思うのかはさっぱり未知の領域ですが、とにかく「あ、ヤバい」と思う瞬間が来ます。いくら綺麗事を言ったとしても、生きていくためにはやっぱりお金が必要なのです。
そして、たどり着いた結論はこうです。
「金がないのに『遊んで暮らす』をやると、勝手にお金を稼ごうと動き始める」
矛盾しているような、していないような言い回しですが、少なくとも僕は「金を稼がないと何かがヤバい」と思いました。
実際、まだ奨学金を返しきっていないし、動画サービスや音楽サービスのサブスクで毎月お金は引かれていくし、冷静に考えても「なんでこれまで焦らなかったんだ?」と不思議になるほどです。ザ・ニートマジックです。「毎日が日曜日」の重すぎる副作用です。
抜け出せない「遊んで暮らす」という生活
いざ今までの生活を改めようとしても、そう簡単には行きません。骨の髄の髄まで「遊んで暮らす」という癖が染み込んでおり、仕事らしいことを始めようとしても「働くとはなんぞや?」という哲学モードから一向に思考が進まないのです。
「仕事しなきゃ」「お金を稼がなきゃ」という気持ちばかりが前に出てきてしまい、肝心の行動にまでなかなかつながらなかったんですよね。
「毎日が日曜日」の代償
わずかばかりに「お金を稼ぐ」という思考にシフトしたものの、それ以降も遊んで暮らす生活から抜け出すことはできずにいました。
というより、もう気になるゲームはやり尽くしてしまったし、観たい映画やドラマ、アニメもあらかた観終わってしまったし、もはや、やることがなくなっていたのです。
途端に熱が冷めたというか、暇をつぶす手段がついになくなったというか、びっくりするほどの無──虚無の世界がそこには広がっていました。
最新のゲームや今季のアニメ、連載中の漫画、ニュース、YouTube、あらゆるコンテンツへの興味が急に薄れてしまったんですよね。
腐るほどの自由な時間を手にした結果、自由に溺れ、自由に束縛され、ついには自由に殺されてしまった──。
8秒に1回は「あー、暇」と呟き、やることなすことすぐに飽きてしまい、ごろごろと転がりながら部屋の天井のシミを数え、貴重な一日が終わっていく──。
何もかもに飽きると、人はどうなるか?
飽きると外に出る
当たり前ですが、飽きると「刺激」を求めて外に出ます。焦燥感か、罪悪感か、そういった得体の知れないものに追い立てられるかのように、散歩に行きます。
引きこもりが外に出るのは、それだけで相当なパワーを消費しますが、そうも言っていられないほど無性に外に出たくなったんですよね。
最初のうちは近所の森や山、川をぶらぶらと散歩し、それにも飽きると、もっと遠くへ行ってみようという意欲が出てきました。
とはいえ、お金がないと旅行にも行けなかったので、仕事という名目でお金が稼げる「リゾートバイト」を群馬の奥地で始めたのです。
そんな生活も3ヶ月もすればすっかり慣れてしまい、「今度はもっと遠くへ」と群馬から実家に帰ってきて、すぐに埼玉から長崎まで自転車で旅に出掛けました。
しかし、1日に10時間も自転車を漕いで100日もするとペダルを踏むのも飽きてしまい、「次は海外にでも行こうかな」とセブ島に英語留学へ。
英語を勉強するのにも飽きて、そのままフィリピンに移住したのですが、そこでも引きこもりニートの生活になってしまい、暇すぎてツアー会社を立ち上げたかと思えば、自分でやらなくても組織が回るようになったのでまた引きこもりになりました。
その後も、引きこもってはオープンカーでハワイをぐるりと一周し、引きこもってはキャンピングカーでアメリカ大陸を横断し、引きこもっては富士山を登る──といったよく分からないサイクルが続いていきます。
なんだかんだ僕の基本スタイルは「引きこもり」なのですが、一定期間「遊んで暮らす」という自堕落な生活をしていると、無性に太陽が恋しくなるというか、行きている実感が欲しくなるというか、とにかく外に出たくなるのです。
「遊んで暮らす」は絶対的に必要な時間
飽きて、飽きて、飽きた結果、いつの間にか県境を越え、国境すら飛び越えていました。
これは極端な例なのかもしれませんが、やっぱり僕は心のどこかで「遊んで暮らす生活」に憧れがあるのでしょう。
それでもいざ「遊んで暮らす生活」をしていると、急にやることがなくなって、ふと「コンテンツを消費する側から生産する側へ」回っていたりします。
ただひたすらにコンテンツを消費するだけの生活を「自由」と呼ぶのなら、僕にとってそういった時間は本当の意味で「自由」ではなかったようです。
消費することに飽きたら、生産し、生産することにも飽きたら消費する。こんなサイクルをずっと続けている気がしますね。
「遊んで暮らす」はバランスが大事
「ずっと遊んで暮らす生活」に憧れこそあるものの、実際に仕事があるときは「ああ、仕事があるって幸せだなあ」と思ったりもするのです。
つまり、僕にとってバランスのいい生き方は、「適度に仕事をやりつつ、基本は遊んで暮らす」なのだと思います。
これまでの結果だけを見ると、ほとんどが「遊んで暮らしているときに始めたことがたまたまお金になった」という形になっています。
暇すぎて始めた趣味が貴重なゲーム財源になっていたり、暇すぎて始めた事業が貴重なdアニメストア財源になっていたり──。
今でも僕の基本スタイルは引きこもりであるものの、「暇すぎて死にそう」と言っていた頃に比べれば、だいぶ引きこもり方が上手になったと思います。
単に遊んで暮らす毎日ではなく、遊びの中にお金を生む仕組みを作って暮らす日々にシフトしつつあるのは、精神衛生上的にもよいことこの上なき。
仕事とか学校とかってクソつまらないよね
自分がやりたくてやっている仕事とか、行きたくて行っている学校とかならまだいいのですが、大抵はそうじゃないことが多いですよね。
最初は望んで行っていたとしても、時間が経つにつれて「どうしてこうなった」と思い始め、どうしても面倒臭さを感じてしまう。
そもそも、自分が本当に望んでいなかった結果や場所であったり、脳が刺激に慣れて飽きを感じてしまったり、腐った社会の縮図のような人間関係に悩んだり──。
そんなしょうもないことで、一気に天国から地獄に突き落とされたりするわけです。人間とは本当にないものねだりの生き物です。
面倒くさいと言いつつだらっと日常を過ごす幸せ
バイトであれ、学校であれ、仕事であれ、そりゃあ「めんどうくせえ」と思う日だってあるでしょう。むしろ、ほとんどがそうかもしれません。
寝ぼけ眼を擦りながら、しがみつくようにカーテンを開け、窓から差し込む太陽に殺意を覚えながら、朝の暗いニュースに辟易する。
満員電車のことを思うと憂鬱な気分になり、会社のことを考えると胃のあたりがムカムカするし、次の休みまであと5日もあるし、ああ、もうゲロ吐きそう。
——かと思えば、辛いのは「行くまで」だけで、あとは「帰宅後は何をしようかなあ」なんて考えながら定時までだらりと過ごす。そんな毎日。
よいこともあれば悪いこともあって、面倒だとは思いつつも、日常が目まぐるしく過ぎ去るのを、たただだ傍観することしかできない日々。
しかし、ふと学生時代を思い返してみれば、「『かったりぃな』と思いつつも過ごしていたあの日々は、実はとても幸せな毎日だったのではないか?」という気持ちにもなる──。
なんだかんだ幸せってやつはすぐそばにあるのかもしれない
「何を幸せと呼ぶか?」なんてのは人それぞれでして、変化が激しい毎日が幸せだと感じる人間もいれば、安定した生活を幸せだと感じる人間もいるわけです。
結局のところ、面倒くさいとは感じつつも、特に大きな問題もなく、目の前を通り過ぎる日常が「本当に幸せな日々」なのかもしれません。
とは言ってみたものの、やはり「決まった時間に、決まった場所で、決まった仕事をする」という毎日は、僕には到底、耐えられそうにもないのですが。
遊んで暮らすはクソつまらないしすぐ飽きる
特に、学生時代は「遊んで暮らす生活」に強い憧れを持っていました。
好きな時間に起き、朝からゲームをやり、飽きたらアニメ鑑賞をし、腹が減ったら飯を食い、好きなときに好きなだけ寝るような毎日。控えめに言っても「最高かな?」と思っていました。
——しかし、実際に遊んで暮らす生活を送ってみた結果、自分が考えていたよりも随分、「遊んで暮らす」は味気ないものだと気づかされたんです。
毎日のように夜中までゲームをして、アニメを観て、映画を観て、トイレと飯以外はずっとPCの前にいて、寝る時間も、起きる時間も決まっていなくて。
決まった仕事もなければ、人間関係のしがらみもない。失敗して怒られるということもなければ、責任なんて言葉も存在しない──。
確かに、最初は楽しかったです。そう、3ヶ月ほどは楽しかった。しかし、そんな自由な生活も続けば日常になってしまうのです。
もう、発狂するかと。暇を持て余しすぎると、精神がぺらっぺらにすり減るんですね、人間って。
そのとき僕は「怠惰とは、人間が極められる位置にないのだ」と思い知らされました。怠惰ですら極められない僕はなんて凡庸な人間なんだろう、と。
部屋に居ながらにして無限のコンテンツにアクセスできる現代
幸か不幸か、今の御時世、人類の叡智の結晶とも言うべき「インターネット」のおかげで、部屋から一歩も出ずとも膨大な量のコンテンツに触れることができます。
ゲームも、アニメも、ちょっとエッ!!なお姉さんも、買い物も、ニュースも、映画も、投資も、ビジネスも──。
パソコンなり、スマホなりが一台あり、ネット環境さえあれば、いくらでも楽しむことが可能です。
現実とは違う仮面を被ることもできるし、世の中では嫌悪の対象になるであろう性癖や本性、そんなものも曝け出すこともできる。はたまた、架空の思い出づくりに勤しみ、承認欲求を無理やり満たすこともできる。
何より、ネット世界には、リアルやテレビよりも格段に面白いコンテンツが溢れています。一生、部屋から出ずに楽しむことも夢物語ではないのかもしれません。
それでも僕は、コンテンツの海に耐えられなかった。
人間の一生は短すぎる
ネットだけに限らず、この世界には「一生では到底網羅できないほどの量のコンテンツ」が溢れています。
すべてのアニメを観ることも、映画を観ることも、本を読むことも、一生で成し遂げられるものはひとつとしてないでしょう。まず、飽きますし。
ゲームだって、アニメだって、いつかは飽きます。人間、刺激に慣れるときは必ず来ます。最初は目新しいと思っていたものでも、いつの間にか慣れてしまうものなのです。
本当の意味で「遊んで暮らす」を実現する方法
「コンテンツを消費する日々」という意味の「遊んで暮らす生活」ではなく、仕事をし、旅行をし、健全な人間関係を構築するといった意味での「遊んで暮らす生活」こそ、僕が本当に目指している場所です。
ただ、そのためにはやはり「遊んで暮らすための潤沢な資金」が必要になるんですよね。
一切の作業をせずに半自動で収入が得られるブログアフィリエイトも、フィリピンで立ち上げたツアー会社が半自動で回っていたときも、思ったことは「半不労所得、神」でした。
遊んで暮らす生活を送るためには、単純に「時間をお金に換えるような仕事」では難しく、どうしても「収益をコンスタントに発生してくれる仕組み」が必要不可欠です。
Webサイト運営やYouTube、事業運営、金融資産への投資、在庫を持たないストック型のコンテンツ販売(音楽・イラスト・ゲーム・写真・情報商材)などなど──。
「アイデアの価値がそのまま収入になるような仕事」を見つけることが、「遊んで暮らす生活」実現へのスタートラインなのでしょうね。
「遊んで暮らす生活」は、半不労所得の源に加えて、
- 心身ともに健康であること
- 健全な人間関係が構築できていること
- 自分で仕事と休みの日を決められる環境であること
などの条件をもクリアする必要があります。
誰でも遊んで暮らせる時代がもうすぐ来る
今現在「人の手で行われている仕事」が機械に任せられるようになったら──?
今後、AIなどの発達によって、人間の仕事の形は大きく変わっていくでしょう。5年か、10年か、いやもしかしたら2、3年で「働かずとも暮らせる時代」の兆しが見えてくるかも知れません。
「働かずとも暮らせる時代」と聞くとまるで夢物語のようですが、ほぼ間違いなく到来する時代だと僕は考えています。
ただ、それは楽観的な意味ではなく、ある意味で「暗黒世界」としてですが。
働かずに5年間も遊んで暮らしていた経験がある僕からすると、「誰でも働かずとも暮らせる時代」は正直に言って怖いです。
一切働かず、食っては寝て、起きてはコンテンツを消費し、好きなときに好きなように好きなだけ情報を貪り食う。
そんな人間が増えたら世界はいったいどうなってしまうのか? 人間の感情や尊厳は正常に保たれるのか──?
どちらにせよ、「誰でも働かずとも暮らせる時代」の到来へ向けて、今から「自分だけの仕事」を見つけておくことはやっておいたほうがいいでしょうね。
まとめ
もしかしたら、一生部屋から出ずに暮らせる人もいるかもしれませんが、少なくとも僕には「何かを作りたい」という欲求がありました。
いずれにせよ、人の一生は短いものです。「遊んで暮らす」を実際にやってみないと、遊んで暮らす生活が自分に合っているのは分かりません。
1年とまでは言わないものの、1ヶ月や3ヶ月、まるっと思い切って「遊んで暮らす生活」を実践してみるのもいいかもしれませんね。
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