アニメ『NieR:Automata Ver1.1a』人類不在の真実が突きつける「存在意義」と「贖罪」の虚無【ネタバレ感想】

アニメ『ニーアオートマタ Ver1.1a』第24話まで観終わったので、その感想や考察などをネタバレありでつらつらと書いていきます。ゲームは未プレイです。

『ニーアオートマタ』が問いかけるもの

正直、アニメを観るまで、ニーアオートマタに対する印象は「なんか尻がすごい作品」というのみでした。しかし、いざ蓋を開けてみれば、いかにも僕好みの世界観──近未来・サイバーパンク・哲学的──で、あっという間に夢中になっていました。

この作品、単なるSFアクションアニメではありません。機械生命体との果てしない戦いを続けるアンドロイドたちを通し、視聴者に「存在意義」「贖罪」「自由意志」といった重いテーマを突きつける「哲学」です。

今回は、ニーアオートマタの核心に迫るネタバレを含めながら、その魅力を哲学的な観点から考察していきたいと思います。

アンドロイドたちの戦いは何のためなのか?

『ニーアオートマタ』の物語は、遠未来の地球を舞台にしています。人類は、地球外生命体によって送り込まれた機械生命体との戦争に敗れ、地球を離れました。アンドロイドたちは、残された人類のために機械生命体と戦う任務を負っています。

アンドロイドとは

アンドロイドは、人間の形をした人工生命体で、戦闘能力を持ち、感情や思考を持つようにプログラムされています。彼らは「ヨルハ部隊」と呼ばれる組織に所属し、機械生命体との戦闘を行います。主要な登場人物である2Bや9Sもこの部隊の一員です。

機械生命体とは

機械生命体は、エイリアンが地球に送り込んだロボットで、人類を排除するために作られました。彼らは様々な形態を持ち、進化し続けることで、アンドロイドたちとの戦闘能力を高めています。

人類滅亡の真実

アンドロイドたちは、人類が生き残っていると信じて戦っていますが、実際は人類はすでに数千年前に絶滅しています。つまり、アンドロイドたちは、存在しない存在のために戦い続けていたんですね。この事実は、アンドロイドたちの士気を保つために隠されていました。彼らは「人類のために戦っている」という目的を持つことで、自らの存在意義を見出していたのです。

人類の月への避難は虚構だった。そして、人類はすでに滅んでいた──。アンドロイドたちは、プログラムされた「目的」を失い、虚無の世界に突き落とされます。彼らが感じる虚無感や混乱は、現代社会を生きる僕たちの「不安」や「疑問」と重なるところがあるのではないでしょうか。

人は何のために生きているのか。その目的が失われたとき、人はどう生きるべきなのか──。これは、僕たち人間にとっての「生きる意味」を問う、根源的な問いでもあります。

デボル・ポポル:背負い続ける罪と贖罪の不可能性

アニメの中で印象的な存在感を放つのが、デボルとポポルというキャラクターです。過去の過ちにより、人類滅亡の一端に関わってしまったこのアンドロイドたちは、その罪悪感を背負いながら、贖罪のために生きる道を選びました。

彼らの物語は「罪とは何か」「贖罪は可能なのか」という深い問いを投げかけています。失われた命は戻らない。ゆえに、彼らの贖罪は永遠に完了しない。ここからは、罪と罰、そして許しの不可能性という、人が目を背けがちながらも向き合わなければならないテーマを感じます。

デボルとポポルの姿は、一人ひとりの中にある「取り返しのつかない過ち」や「許されない罪」の感覚と重なる部分があります。彼らの苦悩を通し、僕たち視聴者は自分自身の罪や後悔と向き合うきっかけを得るのかもしれません。

機械生命体の進化:プログラムを超えて芽生える「自我」

アニメの中で、機械生命体は当初、人類の敵として描かれています。しかし、物語が進むにつれて、彼らは学習や進化を経て、独自の「自我」や「感情」を獲得していきます。

機械生命体が人間を模倣しようとする姿は「人間とは何か」という問いを投げかけます。感情を持つこと、自我を持つこと、それは「人間らしさ」の定義となりうるのだろうか──と。

特に印象的なのは、機械生命体の村で繰り広げられるシーンです。彼らが「家族」や「社会」を形成しようとする姿は、人間社会の模倣であると同時に、彼ら独自の「生」の形を模索する過程でもあります。これは、後に触れる「アンドロイドの自己同一性」の話にもつながりますが、機械生命体の模倣行為は、彼らが自己同一性を求める一環としても描かれているのでしょう。

また、彼らの反乱は、「プログラムされた存在」である彼らに「自由意志」が芽生えている可能性を示唆しており、「自由意志」と「決定論」という哲学的なテーマにつながっていきます。これは、現代のAI技術の発展と重ね合わせて考えることもできるでしょう。

人は皆、自分の意思で行動していると信じていますが、それはどこまで「自由」なのでしょうか。

環境や遺伝子、社会規範など、人々の行動を決定づける要因は数多くあります。機械生命体の姿を通し、僕たちは「自由意志」の本質について考えさせられているとも言えるのかもしれません。

繰り返される戦い:ニーチェの「永劫回帰」と重ねて

『ニーアオートマタ Ver1.1a』では、一つの結末を迎えても、新たな戦いが始まり、物語は終わりを迎えません。特に、この物語のメインキャラである、ヨルハ二号B型(以下、2B)、そして、9Sことヨルハ九号S型(以下、9S)の関係性には注目する価値があります。

戦闘型の2Bとスキャナータイプの9Sはツーマンセルで現地投入され、数々の試練を越えながら、任務を遂行していきます。しかし、実は2Bの正体は2E(ヨルハ二号E型)であり、部隊の脱走者や違反行為者を処刑することを目的とするモデルだったのです。

調査任務に特化した諜報部隊に所属するスキャナータイプである9Sは、作中で何度も「人類滅亡の真実」に気付き、その度に2B(2E)に破壊されていました。破壊され、記憶がロールバックした状態で、また2Bと行動をともにする。そう、何度も、何度も──。

このストーリーは、どこかニーチェの「永劫回帰」を想起させます。永劫回帰とは、全く同じ人生が無限に繰り返されるという考え方。ニーチェは、この思想を通して、絶望ではなく、運命を肯定的に受け入れることの重要性を説きました。

『ニーアオートマタ Ver1.1a』の世界は、まさにこの「永劫回帰」を体現しているように見えます。アンドロイドと機械生命体の戦いは、終わりなき悲劇の連鎖を象徴しているかのよう──。

しかし、この「永劫回帰」の中で、登場人物たちは少しずつ変化し、成長していきます。2Bや9Sの関係性の変化、あるいはA2の心境の変化など、同じ状況の繰り返しの中にも、わずかながらの進歩が見られるのです。

これは、僕たちの人生にも通じる部分があるのではないでしょうか。日々の繰り返しの中で、僕たちは少しずつ変化し、成長していきます。『ニーアオートマタ Ver1.1a』は、そんな人生の縮図を描いているようにも見えるのです。

ポッド153「全ての存在は滅びるようにデザインされている。生と死を繰り返す螺旋に──彼らは囚われ続けている。だが、その輪廻の中であがくことが"生きる"という意味なのだ。私たちはそう思う。」

テセウスの船:アンドロイドの自己同一性

アンドロイドたちは長い闘いの中で、全身の様々なパーツを修理し、交換してきました。9Sに至っては、真実を知る度に2Bに破壊され、新たな9Sとなって生まれ変わっています。では、彼らは変わらずずっと彼らのままなのでしょうか。

つまり、朽ちたパーツが新しいパーツに交換されていき、最終的に全身の部品が新しいものに交換されたとして、それは同じアンドロイドと言えるのでしょうか。

「テセウスの船のパラドックス」として有名なこの哲学的な問題提起は、作中でも触れられています。機械生命体でありながらアンドロイドとの闘いを放棄し、平和な暮らしを望んだパスカルは、その答えとして「何が残れば自分でいられるか──それは心ではないでしょうか」と結論付けています。

心さえ変わっていなければ、それは自分である──と。このパラドックスは、物質だけでなく、人間のアイデンティティや自己認識にも応用されます。実際、人間の細胞は数年ごとに新しいものに置き換えられています。では、過去の「私」は今も変わらず「私」と言えるのか──。

ニーアオートマタは、物理的な部品や記憶の連続性といった要素を通して、自己同一性や存在意義についての深い哲学的な問いを投げかけているのだと思います。

『ニーアオートマタ Ver1.1a』が突きつける問い:僕たちは何のために生きるのか

『ニーアオートマタ Ver1.1a』は、「人間とは何か」「生きる意味とは何か」「自由意志とは何か」など、古くから哲学のテーマとされてきた問いに、明確な答えを与えてくれるわけではありません。むしろ、アンドロイドや機械生命体の物語を通して、視聴者一人ひとりに考えさせる。

フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは「実存は本質に先立つ」という言葉を残しました。これは、人間には予め定められた本質や目的はなく、自らの選択と行動によって自己を定義していくという考え方です。作中でも、機械生命体であるアダムがこの言葉を引用していました。

『ニーアオートマタ Ver1.1a』の登場人物たちも、与えられた役割や目的を超えて、自らの存在意義を模索していきます。2Bや9Sが直面する「人類のために戦う」という目的の喪失、A2の「反逆」の選択、そして機械生命体たちの「人間らしさ」の追求。これらは全て、自らの存在意義を見出そうとする彷徨の過程と言えるでしょう。

また、アルベール・カミュの「不条理」の概念も、この作品と深く結びついています。カミュは、人間が意味を求める欲求と、世界の無意味さとの間の矛盾を「不条理」と呼びました。『ニーアオートマタ Ver1.1a』の世界は、まさにこの「不条理」そのものです。意味のない戦いを続けることを強いられる登場人物たち。しかし、彼らはその中でも自らの意味を見出そうと奮闘するのです。

ポッド042「──未来は与えられるものではなく、獲得するものだから。」

僕の中の「ニーアオートマタ」

人類不在の世界で戦い続けるアンドロイドたちの姿は、どこか現代社会を生きる人間たちと重ね合わせることができるような気がします。時に意味を見出せないまま日々を過ごす人々の姿が、そこにあるような──。

しかし、この作品は虚無的な世界観の中にも希望を見出そうとしています。登場人物たちが互いに影響し合い、変化していく姿には、"意味"を創造していく人間の可能性が示されているように感じました。

与えられた「意味」や「目的」がなくても、僕たちは自らの選択と行動によって、存在意義を作り出せるのかもしれない。その過程は苦しく虚しいこともあるだろう。それでも、その過程そのものに生きる価値があるのだ──。この作品は、哲学的に見れば、ニーチェ、サルトル、カミュ、スピノザの思想が強く反映された作品だったと言い換えてもいいかもしれません。

僕自身、この作品を通じて日々の生活や選択について深く考えさせられたような気がしています。一見意味がないように思える日常の積み重ねが、"僕"という存在を形作っているのだ──と。

この作品が投げかける問いへの答えは、視聴者それぞれの中にあります。「生きる意味」は何か。何のために戦い続けているのか。その先に何があるのか。これらの問いに対する答えを探す旅は、作品を観終わった後も、そして、これからも命ある限り続いていきます。そして、その探求の過程こそが「人生」なのかもしれません。

あと、ニーアオートマタを観る前の僕が抱いていた印象──「なんか尻がすごい作品」というのは、何も間違ってはいませんでした。対戦ありがとうございました。最後におすすめの本も載せておこう。