「これから先の5年間は、体感速度が異次元レベルに跳ね上がるだろう」
そう予感せずにはいられない。まるでジェットコースターの出発を待つような、期待と不安が入り混じる高揚感。それは、希望という名の光と、絶望という名の影が濃厚に交錯する、未曾有の混沌とした時代への船出を意味するのかもしれない。
その兆候は、早ければ2025年中にも顕在化するだろう。高性能AIエージェントの登場を皮切りに、社会のあらゆる場所で、まるでドミノ倒しのように変化が連鎖していく。
もっとも、この急激な変化の波を乗りこなせる企業ばかりではないだろう。AI技術に精通していなかったり、関心が薄かったりする経営層が舵を取る組織では、変革のスピードは緩慢となるかもしれない。しかし、社会の表層で目立った動きがなくとも、水面下では確実に、そして着実に変化の胎動は続いているはずだ。
具体的に社会構造や人々の生活、価値観がどう変容していくのかについては、既に別の記事で多くを語ってきた。だからこそ、この記事では、近頃、僕が漠然と感じている二つの重要なテーマ、すなわち「今この瞬間を記録することの意義」と「何としてでも生き延びることの重要性」について、深く掘り下げていきたい。
今を記録することの深遠な意義
今後5年間は、特に、想像を遥かに超えるスピードで、未体験の変化が押し寄せるだろう。もちろん、この変化の奔流を肌で感じるのは、テクノロジー領域に明るい人々や、先進技術の導入に積極的な業界に限られるかもしれない。あるいは、高性能AIを搭載したデバイスが高嶺の花となり、一般消費者の手に届かないという事態も想定される。
しかし、自動運転技術、高度なロボティクス、業務の自動化、身につけるコンピューター(ウェアラブルデバイス)、キャッシュレス決済、そして働き方の変革など、多岐にわたる分野で、革新的なサービスや技術が同時多発的に出現することは、ほぼ確実と言っていい。
もちろん、地球規模の巨大隕石の衝突や、人類に敵対的な宇宙からの侵略、あるいは世界各地で同時多発するマグニチュード9.0クラスの大地震、致死率の高い新型感染症のパンデミックといった、人類の存続を脅かすような壊滅的な事態が起こらない限りは、だが。
早ければ2~3年の間には、僕らの日常は現在とは全く異なる様相を呈しているかもしれない。それは具体的な製品やサービスといった形あるものかもしれないし、既存の概念、経済状況、社会システム、あるいは人々の価値観や死生観といった、より抽象的なものかもしれない。
だからこそ、「今」という瞬間を丁寧に記録しておくことに、計り知れない価値があるのだ。
身近な例を挙げよう。家の近所に新しい建物ができた時、以前そこにどんな風景が広がっていたか、記憶を手繰り寄せても曖昧なことがある。スマートフォンが普及する以前、通勤電車の中で人々がどのように時間を過ごしていたか、鮮明に思い出せるだろうか?
これからの時代は、このような「記憶の曖昧さ」が、身の回りのあらゆる場所、あらゆる場面で、悲しいほどに増殖していくはずだ。AI技術がどれほど進化し、生活が豊かになろうとも、あるいはその恩恵が富裕層に偏り、経済格差が決定的なものになろうとも、本当に重要で、かけがえのないものは、日々の些細な出来事や変化、身の回りのささやかな出来事の中にこそ潜んでいる。
これから訪れる未来が、人類にとって希望に満ち溢れたものとなるか、あるいは絶望的な光景が広がるのか。それを客観的に見極めるためには、必ず比較の対象が必要となる。
記録された「今」は、過ぎ去った思い出となるかもしれないし、未来を語る上で重要な歴史的資料となるかもしれない。進むべき道を示す羅針盤となるかもしれないし、傷ついた心を癒す薬となるかもしれない。あるいは、目を背けたくなるような黒歴史として葬り去りたい記憶となるかもしれない。
それでも良い。何もないよりはずっと良いのだ──今立っている場所が、底なしの沼なのか、それとも桃源郷の入り口なのかさえ見分けられない状況よりは、遥かにマシだ。
記録の方法は、日記でもブログでも、写真でも構わない。できれば、物理的な形として残せるものが良いかもしれない。大切なのは、できるだけ多くの情報を記録しておくことだ。それらを頻繁に見返す必要はない。自分にとって都合の良い方法で圧縮し、然るべき場所に保管しておけば良い。最低でも5年間は保存しておきたい。
そうすることで、数年後、それらの記録が思いもよらない形で役に立つ日が来るかもしれない。たとえ直接的な役に立たなかったとしても、後から振り返れば非常に興味深いものになっているだろう。あるいは、未来の世界では決して手に入れることのできない、極めて貴重な一次資料となる可能性も秘めている。
正直なところ、記録するという行為は、普段から習慣にしていない限り、面倒に感じてしまうものだ。しかし、ノートの端に、ふと感じたこと、考えていること、悩んでいること、おかしいと思うこと、漠然とした不安などを、走り書き程度にメモしておくだけでも良い。
そうした取るに足らない落書きの積み重ねこそが、未来の自分自身を形作るかけがえのない要素となるのだから。
何が何でも生き延びるという決意
繰り返すが、これからの時代は、かつてないほどのスピードで物事が展開していく。かつては、新しいiPhoneが毎年発表されるだけで話題の中心となり、その進化も、カメラの性能が向上したり、処理速度がわずかに速くなったりする程度だった。
しかし、今後は、想像を遥かに凌駕する技術革新が、半年に一度、月に一度、週に一度、そしてついには、毎日のように繰り広げられるようになるかもしれない。つまり、たった1ヶ月先の未来でさえ、何が起きるか全く予測できない。どれほど革新的な技術やサービスが登場するのか、想像することすら難しい。
ChatGPTが一般公開された2022年11月から、まだ2年と2ヶ月しか経過していない。この短期間におけるAIの進化のスピードは、常軌を逸していると言わざるを得ない。このような加速度的なAIの進化は、もしかすると、人類の存在意義そのものに対して根源的な問いを突きつけることになるかもしれない。その一方で、間違いなく、世界をより豊かに、より良い方向へと導く可能性も秘めている。
そういった意味において、あと1年、健康を維持して生き延びるだけでも、今の状態からは想像もできないほど、生活が豊かに、平和に、あるいは、刺激的で、かけがえのない楽しいものになっているかもしれない。だからこそ僕は、少なくとも2030年までは、何があっても死ぬつもりはないし、心身ともに健康であろうと強く決意している。
たとえ、重い病に冒されようと、不慮の事故で怪我を負おうと、多額の借金を抱えようと、悪質な詐欺に引っかかろうと、凶悪な強盗に襲われようと、住む家が燃え落ちようと、最愛の家族を失おうと、深く愛した恋人に振られようと、謂れのない罪で訴えられようと、どんな困難に直面しようとも、何としてでも生き延びる。
そして、ユートピアとディストピアが奇妙に混ざり合った、この狂った世界を、飽くなき好奇心を持って観察し続けたい。
驚異的な速度で進化し続けるクレイジーなAIと、それに関連する様々な技術やテクノロジーの行く末を、安全な場所から見守りながら、愛猫と戯れ、時折、衝動に駆られるように、一切の電子機器を遮断して遠い場所へ旅に出たり、降り積もったばかりのふかふかの新雪に両手を広げてダイブし、身体を仰向けに返し、空を仰ぎ見れば、ふと聞こえる、嗚呼、何と愉快な地鳴らしかな──。