【日記】最近ぼんやりと考えていること:AGI以後の世界(2025/1/7)

近頃はAIにばかり記事を執筆させていて、自分自身ではめっきり文章を書かなくなってしまった。たまには自分の言葉と手を使って文章を書いておかないと、なんとなく言語能力に支障をきたすのではないかという不安がある。そのため、日記がてら最近ぼんやりと考えていることをつらつらと書き綴っておく。メインとなるテーマはやはりAIと哲学だ。

加速するAIの進化と未来への予感

僕はよくAI、特にAGI(汎用人工知能)実現後の未来について考える。加速度的に進化を続けるAIを見ていると、「これから数年の間に、世界はまるっきり変わってしまうんじゃないか?」と思わざるを得ない。これは確信に近い感覚であり、もはや"起きるか、起きないか"ではなく、"いつ起きるのか"という問題であるようにも思う。

おそらく、AGI以後の世界は今の誰も正確には予想できない。世界や社会、人間の価値観や哲学がどう変化するのかもまったく分からない。それでも、「これは間違いなく起きるだろうな」ということは、いくつかある。

AGI実現は人類にとってプラスか?

まず、大きなテーマとして、このようなものがある。

AGIの実現は人類にとってプラスか──?

僕自身、この問いについてはYes/Noはっきりとは答えられない。せいぜい、「短期的にはNo、長期的にはYesかな」というぐらいだ。

短期的にはNo?

第一に、近い将来、少なくとも2030年までには今の人間が行っている仕事の大部分がAGIないしはAGIを搭載した自律行動型ユニットに代替されていると考えている。

「AIに仕事を奪われる」と言うと、聞こえは悪いし、恐ろしいような気もする。とはいえ、これはまず間違いなく起きると思っている。単調な作業や繰り返しの多い業務は、AGIと言わず、2025年内に登場するAIエージェントによって代替されていく。日本はもしかしたら2~3年は動きが遅いかもしれないが、それでも確実にシンプルな業務はAIによって代替されていく。

AIの性能は、控えめに言っても猛スピードで成長しているため、時間とともに代替される仕事の幅は広がっていく。つまり、雇用の枠が減少していく。

このような話をすると、おそらく「いや、そうはならないよ。仮にAIに仕事が代替されたとしても、新しい仕事は生まれてくるでしょう?」という疑問が投げかけられる。

まったくもって同意する。AIに仕事を代替されても、人間の仕事は次々に出てくるだろう。しかし、雇用は減少していく。なぜなら、簡単な仕事──つまり、誰にでもできるような仕事は真っ先にAIによって代替されるからだ。

どのような仕事をさせるのかにもよるだろうが、たとえば、シンプルなデータ処理や入力作業などは人を雇うよりもAIに任せたほうがコストパフォーマンスが良いのは誰の目にも明らかだ。自分が経営者ならば、30点の仕事しかできない人間を月15万円で雇うか、80点の仕事をこなせる機械を月1万円で雇うか、どちらを選ぶか考えてみてほしい。ちなみに、機械の方の勤務時間は一日24時間で、休日はなくてもいいらしい。

さて、こうなると、以下のことが起きる。

  1. 労働の一部あるいは大部分がAIによって代替される
  2. 人間の雇用が減少し、稼ぎがなくなる。また、購買力が下がる
  3. 労働による生活の維持が困難になる人間が増え、ベーシックインカムなどの施策が導入される
  4. 一方、これまで人間が行ってきたサービスや価値の提供はAIによって担保される
  5. 生活必需品やサービスなどがほとんど無料に近い形で提供されるようになる(物価が極端に下がる)

労働とお金の価値観の崩壊と再構築

AGIの実現によって起きるのは、一言でいうと「労働とお金の価値観の崩壊と再構築」である。

AIの労働によって得られた利益はAIを開発・研究しているテック企業に集中するかもしれない。というか、まずそうなるだろう。雇用を失って生活を維持できない国民が増え続けるのを国が黙って見ているとは思えない。つまり、何らかの形(ベーシックインカムなど)で国民の生活を担保する必要がある。あるいは、テック企業へ個人のデータを渡すことでお金に近いトークンのようなものを受け取るシステムが構築されるかもしれない。

兎にも角にも、そういった流れで人類と労働の関係は大きく変化していく。少なくとも現在の形での資本主義は崩壊し、ポスト資本主義のような社会が誕生する。

始めのうちは「もう働かなくていいの? ラッキー!」と思う人々がほとんどだが、実はこれこそが混沌世界への入口となる。

労働から解放された人類の行く末

人間、寒いときと暇なときには碌なことを考えないものである。生活を維持するために労働をせずとも良くなってしまった人類は致命的な"退屈"に陥る。仮に今の生活から労働が消え失せたとして、失われるものはなんだろうか。

通勤に伴う運動、仕事場というコミュニティや人間関係、労働に対する対価としての報酬(精神・物理的なものを含む)、タスク(やること)があるという明確な目的──。

まだまだあるが、これらを失うだけでも相当、人間の生活は荒む。孤独、憂鬱、不安、自己肯定感の低下、自尊心の欠如、他社貢献の実感の喪失などが襲ってくる。

技術的楽観と社会的悲観

こうした「AIの未来」について語る時、僕は往々にして「技術面では楽観的、しかし、社会的変化に関しては悲観的」に考える。

つまり、AGIの実現は確実であり、早ければ今後2~3年以内にAIによる労働の代替はおよそ誰も反論できない形でやってくる、とそう考えている。そういった意味では、技術面においても"楽観的"とは言えないかもしれない。

なぜなら、「いや、皆の衆、AIの進化ナメすぎでは?早けりゃあと2年でお前(自分も含めて)の存在価値が危ういぞ」と思っているということだからである。

AI進化に対する楽観と悲観:なぜ意見は分かれるのか?未来を予測する

猛スピードで進化するAI

これからの数年、人類は、「人間にしかできないと思われていた仕事」が尽くAIないしはAGIによって代替されていくのを見ることになる。

『クッソwww AIが作ったウィル・スミスがスパゲッティ食べる動画めちゃくちゃすぎて草wwwww』と笑っていたのが今から1年前と考えると、AIの進化の速さがよく分かる。では、さらに1年後はどうなる? 2年後は?

AIによる未来予測と意思決定

動画生成が何の役に立つか分からないという声もあるかもしれない。しかし、これが大いに関係がある。たとえば、人間がコップに牛乳を注ぐときのことを考えてみよう。一見すると単純な行動だが、コップの位置やコップの内部、牛乳パックを傾ける角度、牛乳が注がれるスピード、量など、様々な情報をもとに我々は零すことなくコップに牛乳を注ぐことができる。しかし、これはいちいち頭で計算したりはしない。シンプルに「こうなったらこうなるだろうな」と、頭の中で無意識的にイメージすることで計算コストを下げている。

"イメージ"の仕方は人それぞれあるだろうが、ほとんどの人は「画像ないしは映像」で未来を予測するだろう。AIがこれを手にすると考えてみてほしい。

数秒先に起こるであろう未来を瞬時に動画生成し、それをもとに現在の意思決定の正確性を上げられたら──?

ロボットの性能は確実に良くなるだろうし、自動運転技術も飛躍的に進歩するだろう。それこそ、ブルーカラーと言われるような肉体労働の現場でもAGIを搭載したロボットが活躍することも考えられる。

そうなるとますますAIによって代替される労働が広がる。AI技術の進化によって代替できる労働が増え、またAI技術が進化し──というように、成長の無期限ループに入る。

【クリエイターの本音】AI動画生成は本当に必要?日常利用の可能性と未来への考察

変わりゆく人間の価値

そうして労働の必要性が薄れていく人類はやがて考え始める。「俺たちの価値ってなんなんだろうな」と。

幸せとは何か、人生に目的はあるのか、愛とは何か、労働の価値とは、お金とは何か──。

この点に関して、少し前までの僕は「そのうち、人類は一人ひとりが哲学をするようになっていくのだろうな」と思っていた。しかし、これも最近は違う気がしてきた。

AIによる哲学の代替?

なぜなら、AGIが実現すれば、それは労働を代替するということの他に、よりパーソナライズされた情報提供が可能になっているということであり、それは個人の哲学(価値観)についてもきっと可能になっているからだ。

つまりどういうことかというと、「幸せってなんなんだろうね」とAGIに聞けば、自分のありとあらゆるデータ──過去の出来事やあらゆる概念に対しての観念、価値観、考え、思いなどをもとに、ユーザーがもっともAgreeできる答えを生成できるようになっているはず。

そう考えると、もはや人類に残された最後の暇つぶしである哲学もAIによって代替されていくのかもしれない。

AIに席巻される暇つぶし

暇といえば、おそらく現代人の多くは暇になると、半ば習慣がごとくSNSを開く人が多いと思う。さて、AGIによって言語の壁が完璧に失われ、また、ありとあらゆる"面白い"または"役立つ"、はたまた"感動"するようなコンテンツはすでにAIによって瞬時に生成されるようになっている──。

SNSでの発信活動で暇を潰そうにも(あるいは承認欲求を満たそうにも)、すでにAIによって完全に自動化されたアカウントが存在しているかもしれないし、世界中の超トップ層のインフルエンサーが跋扈していて、とてもじゃないが新規参入できるようなものでもない。

もしくは、反応するアカウントすべてがAIかもしれない(それで承認欲求が満たせるのならそれはそれでありだが)。

AGI時代のSNSは終焉か?未来を生き抜くための新戦略と価値観の大転換

労働も代替され、お金を稼ぐ必要性も薄れ、SNSなどのプラットフォームもAIに席巻されている──。さて、何をしようか。

人類は、AIの進化によって存在意義が脅かされ、人々は自身の存在価値を疑い始めるかもしれない。しかし、その病はすぐに治まるかもしれない。自分が好みそうな映画や漫画、アニメ、こういった娯楽コンテンツもAIによって瞬時に生成されるようになるからだ。

もはや決まり切ったキャラクターやストーリー、タイトルを体験するのではなく、より個人に合わせた、かつインタラクティブなコンテンツも生まれるだろう。そうなったとき、この体験を共有する場合、一体何を誰にどう伝えればよいのか?

おそらく、その相手もAIになっていくのかもしれない。正確にはAGIを搭載した人間に近い、人型のロボット、あるいはそれに等しい人格を持っていると表せるような何か。

AIとの新たな関係性

僕は最近、ゲームを遊んでいて行き詰まったときによくAIに聞く。そして、その答えは今のところ8割ほど正しい(Fallout4)。なんというか、現段階ではただ単にAIに攻略法を教えてもらうといった使い方だが、ゆくゆくはAIと高度に協力して攻略する、まるで長年の付き合いがある相性の良いパートナーに格上げされる日も近いかもしれない。

おそらく声や容姿も自分の好みの相棒像(あるいは魅力的な恋愛対象としての像)を形成できるようにもなっているだろう。人によってはこれを「なんて素晴らしいんだ!」と評価する人もいるかもしれないが、僕は「なんてディストピアな世界なんだ!」と違う視点でワクワクしてしまう。

小説や映画でしか見られなかったAIが発達した未来、たとえば、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」や「サイコパス」、「1984」、「すばらしい新世界」、「ニューロマンサー」などの世界に似た世界がやってくるかもしれないと思うと、『もう絶対、その世界を見るまで死ねるもんか』と、拳を固く、強く握りしめ、空を仰ぎ、そう遠くない未来の世界に想いを馳せながら沈みゆく太陽の眩しさに目を細めるのであった。

未来への期待

とりあえず、直近の話だと、はやく日常使用に耐えうるスマートグラス(視力矯正機能付きか、網膜に情報あるいは風景を映す構造のもの)が出てくれないかな、と考えている。

あとは、非物理的キーボードとディスプレイ、あわよくば高度に設計された仮想空間、それに伴うリアルタイムの感覚共有、インタラクティブかつパーソナライズされた娯楽コンテンツ(ゲームや映画)も。

おわりに

ただ、何より、OpenAI、早く皆が驚くAIエージェント──そう、たとえば、100人中99人ぐらいが「あ、これヤバいわ。そう遠くない未来にAIに仕事取られるわ、どうしよ」と思わせるような何かをリリースして、全人類の目を覚まさせてちょうだい。ジャニュアリー。