インターネット上では誹謗中傷の"嵐"が毎日のように吹き荒れており、それを眺めて楽しむ人間もいれば、自らが渦中に飛び込んで誰かを傷付けたり、誰かに傷付けられたりする人間もいます。
はじめに、結論から。SNSでの誹謗中傷は暴力であり、"反論"ではない。
文章として見れば、ごく当たり前で、小学生でも理解できることです。では、なぜ誹謗中傷はなくならないのか。どうして、インターネット上における建設的な議論は困難になりがちなのか。
誹謗中傷という行為を理解するために、今回は「自己と他者の関係性、そしてそれがどのように認識されるか」という方向から探っていくことにします。
エロティシズムと暴力の関連性
個人は、他者の視線を通じて自己を客体化(物や物として扱う行為)することがあり、同様に、他者を客体化することもあります。
このプロセスは、ソーシャルメディアでの自己演出に例えることができます。
人は、自分のプロフィール画像や投稿を通じて、他者からどう見られたいかを演出し、自己を「商品」のように売り込むことがありますよね。
同時に、他者のプロフィールや投稿を見て、特定のイメージやステレオタイプに当てはめて考えることもあるでしょう。
これは、他者を単なる画像や情報の集合体として「客体化」する行為と言えます。
ここで重要となる考察点が「エロティシズムと暴力の関連性」です。
三島由紀夫は、フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトルを引用した上で、これらが深い部分で関連していることを指摘しました。
私の大嫌いなサルトルが『存在と無』の中で言っておりますけれども、一番ワイセツなものは何かというと、一番ワイセツなものは縛られた女の肉体だと言っているのです。(中略)
──暴力とエロティシズムは深いところで非常に関係がある。他者に対してしか発現しないのが本来のエロティシズムの姿です。(中略)
相手が意思を封鎖されている。相手が主体的な動作を起せない、そういう状況が一番ワイセツで、一番エロティシズムに訴えるのだ。
これが人間が人間に対して持っている(注─性的)関係の根源的なものじゃないかと思います。
映画『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』
エロティシズムは、人間の深い感情や心理的な側面を含む概念であり、いわゆるエロ(性的な魅力や欲求)に限定されるものではない、という点には注意したいところですが──。
ともかく、ここで重要なのは、「人間を主体ではなく客体として扱うことが両者──エロティシズムと暴力──の共通点であり、快の源泉となり得る」ということです。
ネット上では他者が客体化しやすい
「人間を主体ではなく客体として扱うことがエロティシズムと暴力の共通点であり、快の源泉となり得る」
この理論をインターネット文化に当てはめてみると、匿名性や仮想性が、人々が他者を客体化しやすくさせる要因となっていると考えることができます。
特に、ソーシャルメディアにおいては、画面の向こう側にいる者が「主体を持つ人間」であるという認識が薄れやすい。だから、平気で暴言を吐く。人格を否定したりする。
また、あえて自己の認識から他者の主体を取り去り、客体化する──つまり、相手を特定のイメージやステレオタイプに当てはめて考える──ことで、誹謗中傷してもよいと自分に許可を与えている可能性もあるでしょう。
少なくとも、基本的な倫理観を持っている人間であれば、無抵抗の人間に対して暴力を行使した場合、多かれ少なかれ罪悪感、つまり痛みを感じるはずなのです。しかし、そうはなっていない。
その根本的な原因として、やはり「インターネット上は人々が他者を客体化しやすい環境である」ということが言えるのではないかなと思います。
誹謗中傷は自由を求めた結果?
インターネット上での誹謗中傷は、表面的な暴力性だけでなく、エロティシズムの側面をも含んでいると言えるかもしれません。
つまり、他者を支配し、自由を求める人間の本質的な渇望と関わりがあるのではないかということです。
フランスの哲学者、ジョルジュ・バタイユは「社会的禁忌やモラルの破壊を通じてのみ、人間が本来的な自由を体験できる」と主張しました。
インターネット上での誹謗中傷行為は、こういった"社会的禁忌"や"モラルの破壊"を容易なものにし、加害者(誹謗中傷を行なう者)に一時的な自由や権力の感覚を与えることができます。
しかし、このプロセスにおいて見過ごされやすいのが、画面の向こう側にも実際の人間がいるという事実です。
繰り返しになりますが、インターネットの匿名性あるいは仮想性は、他者をただの画面上の存在──客体──として見やすくする傾向にあります。
これによって、誹謗中傷などの、社会では一般的に受け入れられないような言動も、オンライン上では正当化されやすくなってしまうんですね。
「正義の錯覚」に溺れる人間たち
もう一つ厄介な問題があります。それは、誹謗中傷を行なう者の多くが「自分は正義を成している」という錯覚に陥っているということです。
個人が自らの行為を「正義の実現」や「悪の排除」と捉えることで、その行動が社会的規範あるいは倫理に反していても、それを正当化したり──。
集団が特定の個人た事象に対して道徳的な判断を下し、過激な反応や攻撃を正当化したり──。
こうした錯覚は、「実際には持っていない道徳的、または法的権威」を自分に与え、行為の正当性を"自分にとって当たり前の考え方や感じ方"として取り入れることで生じます。
このような現象は、社会的な連帯感を追求した結果としても捉えることができます。
個人は、集団に属することで自己のアイデンティティ(『自分はこういう人間である』という同一性)を強化し、集団が指示する価値観や行動規範に従うことで『自分は正義の一員である』という感覚を得ることがあります。
ただ、そのプロセスでは、客観的評価や批判的思考を欠き、過激化しやすい。
「SNSとかいう危険ドラッグが民主主義をぶっ壊す理由」でも少し触れましたが、インターネット上──特にソーシャルメディア──では、意見が先鋭化しやすく、過激な行動や言論に結びついやすいのです。
無限の悪と正義の消費
インターネット上では、攻撃の対象とされる「悪」が無限に提供されています。つまり、人々は"正義の名の下に"暴力を振るうことができるということです。
ただし、ここでの暴力行為は、実際には個人の不満やフラストレーションの発露であり、真の正義の追求とは異なることが多い。
つまり、彼らの目的は正義を為すことではなく、正義という後ろ盾のもとで権力を振りかざし、自由を得て気持ち良くなりたいだけ。正義の消費と言ってもいい。
もちろん、中には真に正義を為すことを目的としている人もいるかもしれません。しかし、少なくともソーシャルメディアにおいては、建設的な議論はまず無理と考えてよいでしょう。
特にTwitter(X)のような中央集権型のSNSでは、似たような意見が反響し合い、異なる意見または視点が排除されやすく、感情的な対立が目立つ傾向にあります。
これによって、個人は客観的視点や論理的思考を失い、感情に流されやすくなる、と。要するに、感情論になってしまうんですね。
だから、相手の人格や属性を否定したり、相手の感情を揺さぶったりすることが「反論である」と錯覚してしまう人間が蔓延してしまう。
これでは、建設的な議論などできるわけがありません。なぜなら「効いてて草w」や「顔真っ赤w」は反論ではないのですから。
よくある反論の錯覚
おまけ。よくある反論の錯覚(誤謬)の例として、以下のようなものがあります。
相手の人格や属性を否定して反論する「人身攻撃」
- 何を言っても、お前はただの素人だろ
- お前のような無名の人間には分からない
- お前には経験がないんだから、その意見は無価値だ
人身攻撃とは、議論の相手の人格や属性を否定して反論しようとする行為のこと。
相手の主張や論理ではなく、個人の特徴または状況を攻撃することで議論を逸らそうとする論理的誤謬です。
つまり、これらは反論ではないし、こういった言葉を用いて相手を負かしたと思ってもそれは単なる錯覚であり、論破ではありません。
相手の感情を揺さぶり論点からそらす「感情に訴える論証」
- 効いてて草wwwww
- そんなに熱くならなくても(笑)
- お前が怒ってるの見ると笑えるわ
感情に訴える論証とは、上記のような表現で相手の感情を揺さぶり、論点から逸らそうとする行為のこと。
相手を嘲笑することでその主張を卑下しようとする「揶揄」と言い換えてもいいでしょう。
当然ながら、これらも反論ではありません。誹謗中傷の一種であり、論理のすり替えと言えます。
誹謗中傷はれっきとした暴力である
他人の評判を傷付ける目的で虚偽の事実を広める──。悪意を持って人を避難したりする──。人身攻撃や精神的圧力、揶揄──。
これらの誹謗中傷は"反論"ではなく、れっきとした暴力です。SNSのような公の場で対象者の評判を傷付ける、あるいは辱めたりする行為は、明らかな、暴力。
少し冷静に考えてみれば、小学生──いや、小学校に入る前の子どもにだって理解できる、簡単なことです。それなのに、今日もインターネット上は暴力とエロティシズムに溢れている。
SNSで誹謗中傷がなくならない理由は、まず、人間の根本的な欲求が深く関係していること。そして、ソーシャルメディアのシステムそのものがそれらを過剰に引き出している点にあると言い換えられます。
しかし、いくら自分自身で気を付けていても、朱に交われば赤くなるもの。だから、僕はTwitterをやめた。誹謗中傷が建設的な議論に役立つとは到底考思えません。
言葉による「ファイト・クラブ」はありか?
おそらく、このような考えもあると思います。
「"殴られる覚悟のある者"同士であれば、少なくともインターネット上においては、言葉の暴力の行使も許容範囲なのではないか」
つまり、1対1の、映画『ファイト・クラブ』方式の、純粋な──言葉の──殴り合いであれば、なんでもやり合えばいいじゃないか、と。
ただ、これについても問題があります。物理的な殴り合いと異なり、言葉での殴り合いは「ダメージ判定」が分かりづらく、両者間の均衡が崩れやすい。また、予期せぬ形で深刻なダメージを与えかねない。特に、匿名性や非対面性が担保される環境では。
とはいえ、インターネット上での"じゃれ合い"や"言葉の暴力のぶん殴り合い"により「精神的な痛み」を伴うことで、自由、生き甲斐、そして生きている実感を感じている場合も往々にしてある気がしています。
──が、結論としては、やはり「言葉によるファイト・クラブを許容するかどうかは慎重に検討するべき」とせざるを得ません。
仮に参加者同士がその覚悟を持っていたとしても、言葉の影響は予測不可能であるし、深刻な精神的ダメージをもたらす可能性もある。それに、そもそも1対1という状況を作り出すことがとても難しい。
よってこの記事では、個人の感情の発露や自我の確認手段としての「言葉のファイト・クラブ」を正当化することは避けるべき、という締めにしておきます。
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