他人からの評価や世間体を気にするあまり、いつの間にか「自分」や「自分の人生」に対してフォーカスできなくなっている——。
常識やルールといったものを大切にする日本人は、こういった傾向が特に強いのではないでしょうか?
「嫌われたくない」
「否定されたくない」
「他人の目が気になる」
このような心理は人間誰しもあるものだとは思いますが、行き過ぎると「人生をつまらなくさせる要因」になります。
そもそも、「自分の価値」とは何なのか? それは他人が決められるものなのか?
結論から言うと、周りの人間が求めているような「自分らしさ」なんてどうでもいいです。
「自分の価値」という言葉のあやふやな定義
まず、「自分の価値」という言葉の定義から考えてみましょう。
本来、「価値」というものは「評価する人間がいて、初めて付けられるもの」です。
たとえば、目の前に「ひとつのダイヤモンドの宝石」があり、地球上に人間が一人も存在しなかったとしましょう。
——さて、そのダイヤモンドの宝石には価値があると言えるでしょうか?
たとえば、あなたは絵がとても上手です。ダ・ヴィンチもびっくり、ピカソも目をひん剥いて驚くレベルで絵が上手です。
しかし、地球上にいる人間はあなた一人だけ。
——さて、あなたが描いたその絵の「価値」はいったい誰が決めるのでしょう?
自分の価値は他人が決めるもの?
哀しいかな、上記のたとえ話からも分かる通り、「自分の価値は他人が決めるものである」というのは紛れもない事実です。
野村元監督の名言集1にも、
「その人間の価値や存在感は、他人が決めるのである。人間は人の評価で生きている。自分の評価より、他人が下した評価の方が正しいのである。」
という言葉があるように、評価する人間——つまり、他人がいなくては「自分の価値」は決まらないのです。
——ただ。ただですよ?
「『自分の価値』って、そういうことじゃないんだよなあ」と思いませんか?
何と言うか、他人が決めるような「価値」ではなく、もっと根源的——本質的な「価値」とでも言いましょうか。
「自分」という一人の人間の、もっと純粋な意味としての「価値」です。
つまり、「自分の価値」という言葉は、
- 他人が決める、評価としての「自分の価値」
- 他人に決められない、純粋な意味での「自分の価値」
という「2通りの解釈」ができてしまうのです。
「自分の価値」という言葉の意味合いは、時と場合によって、まったくの別物になってしまうんですね。
ああ、これじゃあ、悩みは尽きないわけだ。
「価値がないから、いらない」にならない理由
では、もし誰からも評価されず、仕事や勉強に関しても一切褒められることがなく、自分に「価値」と呼べるべきものが何ひとつなかったとしましょう。
果たして、その人は「価値がないから、いらない」とされてしまうでしょうか?
もし仮に、「価値がない=必要がない」という方程式が世の中に当てはまるのならば、確かにそういうことになるかもしれません。
中には、
「その人だって生きている限り、物を食べるし、金だって遣うだろう。経済を回しているのだから、その人にも生きている価値はあるのだ」
という意見もあるかもしれませんが、本人は決してそうは思わないでしょう。
なぜなら、その人にとっては「自分から見たときの『他人が決めた"自分の価値"』」が大きな意味を持つからです。言うなれば、「他人が決めた"自分の価値"」がアイデンティティ(自我同一性)になっているのです。
では、「価値がない=必要のない人間」ということにはならないのは、なぜでしょうか?
それは、本来の「自分の価値」というものは、他人によって決められるものではないし、決めるべきものではないからです。
「価値」という言葉は誤解を招きやすい
そもそも、「価値」という言葉が他の言葉にも置き換えられるからこそ、余計な「誤解」や「悩み」を生んでしまうのです。広い意味を持つ言葉は、便利ゆえに、不便なことも多い。
「価値」という言葉は、時と場合によって、「評価」だとか、「優秀さ」だとか、「生きる意味」だとかいう言葉に置き換えることができますよね。
そのせいで、
「自分の価値は他人が決めるものである」
「自分の価値は他人が決めるものではない」
というように、まったく反対の意見が出てきてしまうのです。
「自分の価値は他人が決めるものである」のアンチテーゼ
- 命題Ⅰ「自分の価値は"他人が決めるもの"である」
- 命題Ⅱ「自分の価値は"他人が決めるものではない"」
こういった「対立した命題」がある場合、互いの命題の「真偽」を考えるとスッキリします。以下、『カント入門』からの引用です。
「四角い円はまるい」という命題と、「四角い円はまるくない」という命題はたがいに対立しあっているが、両方とも明らかに偽である。
ここからわかる重要な指針は、対立しあう二つの命題がともに偽の場合、そもそも両命題の共通の主語概念が不合理をはらんでいるということである。
石川文康『カント入門』(ちくま新書,p.84)
要するに、
- 四角い円はまるい←間違っている
- 四角い円はまるくない←間違っている
- つまり、「主語」がおかしい
ということです。同様に、
「自分の価値は"他人が決めるもの"である」
「自分の価値は"他人が決めるものではない"」
という命題はどちらも偽であると考えられます。
時と場合によって「文章の意味」が揺らぐのは、少なくとも真理ではない——つまり、「自分の価値」という主語に不合理性が含まれる証拠なのです。
おそらく、多くの人が考える「自分の価値」というのは、「世間が勝手に決めた『価値』」であり、「他人が勝手に評価した『自分の存在価値』」なのではないでしょうか?
生きる上では「他人が決めた自分の価値」が大きな意味を持つ
結局のところ、「自分の価値」というものがあったとして、それを決めるのは「他人」であり、「世間」なのです。
では、「自分の価値は『世間』が決めるもの」という言葉で言うところの、「世間」とはいったい何なんでしょう?
「世間」という言葉は、いったい何を指しているのでしょうか? 「他人」とはいったい誰のことでしょう?
「他人」とは何か? 「世間」とは何か?
極端な話、「他人」や「世間」というのは、自分自身が「『他人』とはこういう人のことだ」「『世間』とはこういうものだ」と解釈している概念に過ぎません。
太宰治は、『人間失格』の中でこう書き綴っています。
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実態があるのでしょう。(中略)
「世間というのは、君じゃないか」(中略)
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?)
太宰治『人間失格』(新潮文庫, p.100-101)
他の誰かにはなれないけれど、自分を変えることはできる
「他人」や「世間」を変えることはできません。しかし、自分の中で「『他人』や『世間』といった言葉の概念」を変えることはできます。
つまり、「他の誰かにはなれないけれど、自分を変えることはできる」ということです。
「自分は無能だ」と決めつけてしまう前に
「自分の価値は世間が決めるものだ」
確かに、その通りかもしれません。その通りかもしれませんが、一度、「自分の価値を決めている『世間』というものが、いったい何を指しているのか?」を考えてみてはいかがでしょうか?
「自分に自信がない」
「自己肯定感が低い」
「生きづらい世の中だ」
「自分なんてどうでもいい」
と悩んでいる人にとっては、これはとても大事な作業になり得ます。
僕自身、HSP2の気質があり、うつ病とPTSDも患っています。控えめに言っても、世の中を「生きやすい」とは思えません。しかし、太宰の、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉に出会って、ちょっと気持ちが楽になりました。
「ああ。結局、『世間』というものも、自分が決めているのだな」と。
もっとも個人的なことが、もっともクリエイティブなこと
——私が映画の勉強をしていたときに、本で読んだ言葉で、今も大切にしている言葉があります。
『もっとも個人的なことは、もっともクリエイティブなことだ』という言葉です。
これは、マーティン・スコセッシの言葉でした。私は、彼の映画を見て勉強したんです。
これは、2020年2月10日(現地時間2月9日)にアメリカ・ロサンゼルスで行われた「第92回アカデミー賞」にて、ポン・ジュノ監督が監督賞受賞時のスピーチで語った言葉です。
#Oscars Moment: Bong Joon Ho accepts the Oscar for Best Directing for @ParasiteMovie. pic.twitter.com/b7t6bYGdzw
— The Academy (@TheAcademy) February 10, 2020
「自分の価値」とは「クリエイティブ」であること
「もっとも個人的なことが、もっともクリエイティブなことだ」
これまでポン・ジュノ監督の作品を観たことはなかったんですが、このスピーチを受けて、僕はとても感動したのです。
この言葉が刺さるのは、アーティストやクリエイターといった、いわゆる「何かを作る人」だけに限らないと思うんですよ。
生きていると、どうしても成功者の行動や言動を必要以上に素晴らしいものと受け取ってしまいがちですし、自分の気持ちより、周りの評価を優先してしまうことが多いんじゃないでしょうか?
いくら誰かの後を追ったところで、それは他人の人生であって、自分の人生ではないのです。
自分以外の何者かになることはできず、誰かの人生を生きることは不可能なのです。
だからこそ、「自分らしく生きる」ということが大事なのだと僕は思うんですよね。
自分らしく生きるということ
誰しもが一度は考えるであろう「自分を変えたい」という願いは叶えられるものであり、自分を変えることは可能です。
ただ、他の誰かになることはできない。そもそも、そんな必要はどこにもない。
たとえ「自分の価値」というものが「他人によって決められるもの」だったとしても、自分の中で「世間」というものを定義している限りは「他人」も「世間」も自分の一部です。だから、自分らしく生きていいのです。
「自分の価値」と「自分らしさ」というのは似て非なるもので、自分らしさは自分で見つけるものです。周りの人によって定義されてはいけないものなのです。
自分にとっての「自分の価値」とは
「価値がある」ということは、他のもので代用ができない——もしくは、希少価値があるということです。
つまり、自分にとっての「自分の価値」は、とても個人的なことであり、本来、周りの人間がおいそれと決められるものではないんですよ。
とはいえ、現代の社会では、他人の評価によって自分の価値が決められてしまうのが実のところです。
しかし、「他人の評価」や「世間一般の常識」を、「自分らしさ」と勘違いしてしまうことは避けなければなりません。
周りの人間があなたに求めているような「キャラクター」や「イメージ像」を気にするあまり、自分に自信を持てなくなってしまっては元も子もないですからね。
まとめ
他人からよく見られたい、褒められたいという欲求があるのは当然のことです。
しかし、「自分が思う『自分』」と「自分が思う『他人から見た自分』」には、どうしても大きな差が生まれてしまうものです。
どうが頑張っても自分は他人にはなれないので、完全に「他人から見た自分」を理解することはできません。
だからと言って、評価を得るために努力をすることは、決して悪いことではありません。
ただ、満足した評価が得られないからといって「自分には価値がない」と思ってしまうのは間違いです。
他人から半ば強要されているような、周りの人間が勝手に定義したような「あなたらしさ」なんて、ぶっちゃけどうでもいいんですよね。
大事なのは、「自分らしさ」の決定権を他人に委ねないこと。「世間」などという実態のない虚像に縛られないように気をつけること。
既成概念や固定観念は、知らず知らずのうち、あらゆる情報に触れていくうちに自分の中で「勝手に形成されていくもの」です。
いつの間にか、「自分自身で自分の思考や行動の範囲を狭めてしまっている」ことも多々あるので、定期的に心の調律はしておいたほうがいいでしょう。
心と思考のチューニングをする方法
比較的安価で手軽にできる「心と思考の調律方法」は、やはり「読書」ですね。
以下、アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』に登場する天才犯罪者「槙島聖護」の言葉です。
「本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚を調整するためのツールでもある。」(中略)
「調子の悪いときに本の内容が頭に入ってこないことがある。そういうときは、何が読書の邪魔をしているか考える。調子が悪いときでもスラスラと内容が入ってくる本もある。なぜそうなのか考える。精神的な調律、チューニングみたいなものかな。調律する際大事なのは、紙に指で触れている感覚や、本をペラペラとめくったとき、瞬間的に脳の神経を刺激するものだ。」
本を通して他人の考えに触れ、自分で「ものを考える」時間を持つことは、健やかに生きていく上でとても大事なことです。
「世の中、生きづらいよなあ」
「なんだか、おかしいことばかりだなあ」
と悩んだことがある人は、一度騙されたと思って、本をたくさん読んでみるといいです。
数ある本の中にはハズレもありますが、古くから読みつがれている本であれば、おそらくそれほど駄本は少ないと思いますので。
「紙の本を買いなよ」から考える電子書籍と紙の本の使い分け
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本記事にぴったりの本3冊を紹介
本記事の内容に合う、僕の「おすすめの3冊」をピックアップしておきます。
『「繊細さん」の本』は僕が去年出会った百数十冊の本の中でも、特に「読んでよかったなあ」と思った1冊です。
「気が付きすぎて疲れる」という経験がある人にとっては、これ以上ないほど有益なライフハックが詰まっているので、
- 相手が気を悪くすると思うと断れない
- 疲れやすく、ストレスが体調に出やすい
- 周りに機嫌が悪い人がいるだけで緊張する
- 細かいところまで気づいてしまい、仕事に時間がかかる
という項目に覚えがある人は、ぜひ参考にしてみてください。
下の『人間失格』と『カント入門』の2冊はそれぞれ小説と哲学入門書ですが、僕は「読みやすい割にタメになる本」だと評価しています。
気になったほうだけでも読んでみると、「心のもやもや」が少しは楽になるかもしれません。
太宰と夏目
少し話は逸れますが、小説の古典──特に「太宰治」と「夏目漱石」の文章は、「繊細な人」におすすめできると僕は思っています。
人間の心の繊細な動き——暗い部分や複雑な部分——が緻密に描写されていて、「ああ、僕もそうかも」「ああ、僕もこれかもしれないな」と勇気が湧いてきます。
まだ夏目漱石の『こころ』を読んだことがない方は、この機会にぜひ読んでみましょう。
Kindleや青空文庫でも無料で読めますが、個人的には文庫版の購入をおすすめしたいところです。
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