3月に入り、僕はまた体調を崩しつつある。しかし、これについては「あきらめる」ことにしている──。
「あきらめる」は、一般的にネガティブな意味合いを持つ言葉として用いられます。
試しに辞書を引いてみると、以下のような説明がなされていました。
あきら-める
1.【諦める】 《下一他》
とても見込みがない、しかたがないと思い切る。断念する。
「夢を―な」2.【明らめる】 《下一他》
事情・理由をはっきり見定める。
「諦める」と「明らめる」──。どちらも同じ「あきらめる」であるのに、その意味はまるで異なるものです。
そもそも「諦」は、「真実」を意味する梵語「satya(サトヤ)」の漢訳語。
つまり、本来の「諦める」には、「道理を明らかにする」や「悟る」といった意味が込められているのです。
単に諦めるだけであれば、そこには「怨望(他人の幸福をねたんだり、うらむこと)」が残ります。
ところが、物事の道理を弁え、願望が達成されない理由が明らかになれば、納得した上での「諦」となります。
本質を見極めようとしているか、プロセスに目を向けようとしているか──。
「諦める」と「明らめる」には、そういった違いがあるように思えます。
「怨望」について
怨望は諸悪の根源のようなもので、どんな人間の悪事もここから生まれてくる。猜疑、嫉妬、恐怖、卑怯の類は、すべて怨望から生まれてくる。
──怨望は貧乏や地位の低さから生まれたものではない。ただ、人間本来の自然な働きを邪魔して、いいことも悪いこともすべて運任せの世の中になると、これが非常に流行する。
福沢諭吉, 斎藤孝『現代語訳 学問のすすめ(ちくま新書)』p.166, 168
「明らめる」ことの重要性
僕は赤子の頃より宗教の束縛を十数年間に渡って受け続けてきた、いわゆる「宗教二世」です。また、中学時代は、ほとんどの期間を「虐めのターゲット」として過ごしました。
28歳になって訪れた精神科で「PTSD」と「うつ病」の診断が下され、カウンセリングを熱心に行うまでは、そういった過去の記憶の多くを喪失していた状態でした。
しかし、そういった事実は、もう何ひとつ変えることができません。人は生まれる場所を自ら設定できないし、自分の意思ではどうすることもできないことが世の中にはあるからです。
通院、投薬、カウンセリングといった治療を続けながら長い療養期間を過ごすうち、僕はだんだんと物事を「あきらめる」ことができるようになっていきました。
つまり、PTSDであること、うつ病であること、HSPという気質の持ち主であること、季節性感情障害(SAD)や過敏性腸症候群(IBS)を抱えていること、などをです。
今まで出来ていたことが出来なくなり、食べられていたものが食べられなくなり、飲めていたものが飲めなくなり、考えられていたことが考えられなくなり、楽しめていたものが楽しめなくなっていくこと──。この絶望は、おそらく体験した者にしか分からない辛さであり、言葉に言い表すことのできない恐怖です。
ここでただ黙って「諦める」のか、それとも「明らめる」のかで、これから進む道の景色は変わっていくのだろうと思っています。
「運命を受け入れる」ということ
人生には、人にはどうしようもない逆境と、そうでないものがあります。
僕は「人にはどうしようもない逆境」を積極的に「あきらめる」ことで活路を見出そうとしました。
つまり、自分の努力でどうにかできるもののみに目を向けた、ということです。
──逆境に立たされた場合、どんな人でもまず「自己の本文(自分に与えられた社会のなかでの役割分担)」だと覚悟を決めるのが唯一の策ではないか──(中略)
現状に満足することを知って、自分の守備範囲を守り、「どんなに頭を悩ませても結局、天命(神から与えられた運命)であるから仕方がない」とあきらめがつくならば、どんなに対処しがたい逆境にいても、心は平静さを保つことができるに違いない。
渋沢栄一, 守屋淳『現代語訳 論語と算盤(ちくま新書)』p.035-036
投資家のウォーレン・バフェットは、「能力の輪」というすばらしい表現を用いている。
人間は、自分の「能力の輪」の内側にあるものはとてもよく理解できる。だが「能力の外側」にあるものは理解できない、あるいは理解できたとしてもほんの一部だ。ロルフ・ドベリ, 安原実津『Think Clearly(サンマーク出版)』p.136
『自分はこういった性質の人間なのだ』と「あきらめる」ことは、決して悪いことではなく、むしろ、自分の努力でどうにかできることとできないことの境界線を引くことに他なりません。
「能力の輪」を越えて成果を出そうとしても、一時的に良い結果が得られる可能性はあれど、到底、長続きするとは思えませんし、心身への負担が大きいことは間違いありません。
僕自身、「あきらめる」を意識し、実践し始めてから、肩の荷が下りたような──、本当の意味で自分と向き合えたような──、そんな気がしています。
振り返ってみれば、20代のうちは「自分に向いていない守備範囲外のことばかり」を追いかけていたように思います。
──いや、当時はそれが自分の守備範囲だったのかもしれない。けれども、今となってはその"守備範囲"も変わってしまった、ということなのかもしれない。
10代のうちに漠然と守備範囲を定め、20代でそれを確たるものにしていく──。これが世間一般で言う「普通の過程」なのかもしれません。
それに対し僕は、そのプロセスを30代に突入してやっと本格的に始めることができた、というだけのことなのです。
そもそも、「あきらめる」という行為と「年齢」とは関係ありません。年齢だけでなく、性別や過去、環境、現在の収入なども、もはや関係がない。
少なくとも精神の上では過去の精算も解釈の修正も可能なのだから、自分と真の意味で向き合うことは人生で何度あってもよいし、何歳になっても新しい自分を発見することは喜びであるはずなのです。
運命を受け入れることは「あきらめる」ことである
よく「運命に抗う」や「運命に逆らう」といった言い回しがされますが、本来、運命とは、空気や海のように"そこに当たり前に存在するもの"なのではないかと思います。
重要なのは、身に巡って来る吉凶禍福──つまり、運命をどのように受け取るかであり、そこからどのようなことが学べるのか、ではないでしょうか。
運命そのものには良いや悪いなどの概念はなく、それをどのように解釈するかは生きている人間次第であるということです。
運命とは真理であり、梵語で言う「諦」──真実であり、本質であり、道理。
それは、受け入れる他ないものではあるものの、解釈の仕方如何によって、絶望にも希望にも、毒にも薬にもなり得ます。
運命を積極的に「あきらめる」ことで、闇を照らす光──とまではいかないまでも、頭痛時のロキソニンSプレミアム程度の働きはしてくれるのではないかと思う今日この頃です。