“自分は何者か”を強制されるSNSの中で感じる違和感

「自分は何者か」という問いは、現代社会において避けられないテーマです。

SNSや自己表現の場が増える中、人は常に「自分らしさ」を定義し、他者に示すことを求められています。

しかし、こうした「自己の定義」を強制されるかのような時代に、どこか違和感を抱く人も少なくないはず。

僕らは、本当に自分の内面から「自分」を形作っているのだろうか。

それとも、誰かの期待や社会の枠組みに合わせて作られた「他者が望む自分」を演じているのだろうか。

自分とは、命ある限り、「形作られた」ものではなく、常に「形作られつつある」ものなのではないだろうか──。

SNSは自己を「見える化」して他人に評価される場

SNSは、これまで履歴書や面接といった特定の場面でしか意識しなかった個人の"ステータス"や"属性"を、日常的に意識させる仕組みになっています。

プロフィールや投稿は、どこか履歴書に似た形で自己を「見える化」し、他人に評価される場になっているとも言えます。

つまり、自己を常に意識し続け、他者との比較の中で自分の価値を測るという状況に陥りやすい──。

また、"華やかライフスタイル"を強調する投稿が多いSNSでは、他人の「表面上の成功」を日々見せられることで、無意識的に焦燥感や劣等感を抱くようにもなります。

"個性"を思い求めて平均化される人々

個性を求められるこの時代において、人々の考え方や価値観は、SNSの情報によって平均化されていると言っても過言ではありません。

SNSのアルゴリズムは、似た考えや価値観を持つ人々の投稿を推奨し、共感を呼ぶ情報が拡散されやすい仕組みになっています。

この結果、個性を追い求めながらも、常に似たような情報に触れることで、思考は知らず知らずのうちに毒され、一般化された価値観に染まってしまうのです。

個性的であることが評価される一方、同時に「個性のテンプレート」の枠に収まることが求められ、本当の意味での"自己表現"が困難になるというジレンマ。なんとも皮肉な話です。

個性を発揮するには"孤独"が必要

本来、個性を発揮するためには"孤独な時間"が必要です。

しかし、SNSのような常に他者との繋がりを前提としたプラットフォームでは、孤独になることが難しく、孤独でいることに対する不安が増大してしまう傾向にあります。

結果、個性追い求めるための孤独な時間が欠如し、自己探求の機会を失ってしまう。

ソクラテス、ジャン=ジャック・ルソー、ニーチェ、ハイデッガー、キェルケゴールといった名だたる哲学者たちも、それぞれ異なる視点ながら「孤独の価値」を見出しています。

個性の発揮や自己理解には、他者との距離を置き、自分と向き合う時間が必要なのです。ピカソも言ってます。孤独なくしては、なにも成し遂げられない──と。

ヒエラルキー・バトルアリーナ

SNSでは日常的にヒエラルキーやマウントの取り合いが発生しています。僕はこうした光景を、ヒエラルキー・バトルアリーナ、あるいはマウント・コロッセオと呼びたい。

フォロワー数や「いいね!」の数、投稿内容の質などが競争の対象となり、それによって人々は互いに自分を高めようとしています。これは一概に悪と言えるものではないでしょう。

しかし、これらが個人に慢性的なストレスを与える要因になっていることもまた事実。

常に他者との比較に晒されることで、自分が劣っていると感じたり、何かを成し遂げねばならない、何者かにならなくては──といった強迫観念に駆られたりするのです。

SNSの影響によって、不安、焦り、頭痛、睡眠障害といった精神的および身体的な不調を抱える人が増えていることも納得せざるを得ない。

まとめ

SNSは本来、人と人との繋がりを促進するためのツールでありながら、逆に多くの人を孤立させ、ストレスを増幅させる装置と化しています。

「自分は何者か」という問いに向き合うためには、SNSの情報に振り回されないようデジタルデトックスを行ったり、他者と比較する時間を減らす努力が重要なのではないでしょうか。

孤独と向き合うことは困難な道かもしれない。それでも、その第一歩として、まずは「SNSの利用時間を減らす」ことを僕は全人類に推奨したい。

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