僕たちの社会は、多様性を尊重する方向に向かっているようで、実は二項対立的な考え方に縛られていることが多いのではないでしょうか。善と悪、正常と異常、賛成と反対──。こうした白黒思考は、もしかすると人間が本来的に持っている傾向のひとつと言えるのかもしれません。
今回は、社会システムと個人の多様性の関係性について深く掘り下げ、誰もが悪者──ヴィラン──になり得る可能性について、また、AIの発展や教育の役割を踏まえながら、より包括的な社会を実現するためのヒントについても考えていきたいと思います。
※一部に『僕のヒーローアカデミア』のトガヒミコに関するネタバレが含まれていますので、閲覧にはご注意ください。
社会システムの「正常性」の罠
社会システム──特に民主主義は、多様性を重視すると謳いながら、実は「正常」と「異常」を区別し、個人を規定してしまう傾向があります。これは、"システム"が安定を求めるがゆえの自然な反応かもしれません。
例えば、教育システムでは、標準化されたカリキュラムや評価基準が「正常」な個を育てるための重要なファクターとして重点を置かれ、企業社会では、特定の働き方や価値観が「正常」とされ、それ以外は「異常」と見なされがちです。
しかし、本当にこの「異常」とされるものが社会にとって不要なのでしょうか。それとも、単にシステムが多様性を適切に認識できていないだけなのでしょうか。この問いかけは、社会の在り方を根本から考え直すきっかけとなります。
誰もが"ヴィラン"になり得る可能性:トガヒミコのケース」
『僕のヒーローアカデミア』に登場するトガヒミコは、社会から排除された存在として描かれています。彼女のキャラクターは"普通でない"とされることによって、社会から異常者として扱われ、最終的にはヴィランとしての道を選ぶことになります。この構図は、彼女だけでなく、多くのヴィランたちに共通するテーマです。
トガヒミコの背景
トガヒミコは、幼少期から自分の個性──血を吸うこと──に悩まされていました。彼女は他人の血を吸うことで、その人の感情や記憶を体験することができる能力を持っていますが、この特異な能力は社会から恐れられ、理解されることはなかったのです。
彼女は「普通」であることを求められる社会の中で、自分の存在を否定され、孤立していきます。
社会のシステムと排除
トガのように、社会の基準に合わないとされる人々は、しばしば「異常者」として扱われます。このようなレッテルは、彼らが社会に適応することを難しくし、最終的には排除される原因となります。トガは、自分の個性を受け入れてくれる場所を求め、ヴィラン連合に参加することで、自分の存在意義を見出そうとします。
ヴィランとしての選択
トガヒミコのようなキャラクターは「社会からの排除によってヴィランになるしかない」という悲劇的な構図を持っています。彼女は、他者とのつながりを求める一方で、社会からの拒絶に直面し、最終的には自らの道を選ぶことになります。この選択は、彼女自身のアイデンティティを形成する重要な要素となり、彼女の行動や価値観に深く影響を与えています。
トガヒミコの物語は、社会のシステムがどのように特異な存在を排除し、その結果としてヴィランを生み出すことになるのかを示していると言えるのではないでしょうか。
「システムから外れた者」のゆく末
社会の基準に合わず、普通でないというレッテルを貼られた「システムから外れた者」は、フィクションの世界だけでなく、現実の世界においても数多く存在します。
これは、社会で演じる「役割」に飲まれると人は疲弊するでも書きましたが、現代では、マイノリティを特別に扱おうとするあまり、かえって「異様さ」や「違い」が強調されているような気がするんですよね。"多様性の尊重"は確かに現代社会の重要な価値ですが、結果的にそれが他者との違いを再確認させ、無意識的に差別や偏見を助長している性格もあるのではないかな、と。
思うに、社会──特に民主主義──というシステムは、多様性を受け容れる柔軟な器というより、どちらかと言うと、多様性を持つ人間の形を"社会"という強硬な器に無理やり押し込める機能を持っているように思うのです。その結果、本来は多種多様な考えや独創性を持つ人々が、何か特定のファクターによって切り分けられ、整理され、管理され、何か別のものとして認識されてしまう──。
現代では、誰しも"ヴィラン"になり得る可能性を持っているにも関わらず、普通だ、異常だ──などと優越感や劣等感を隠れ蓑とすることに慣れすぎている節があり、あるいはそれは、多様性を持つ人間たちを飼いならすために作られた社会という名のシステムなのかもしれません。
歴史が教えてくれる「システムから外れた者」の価値
とはいえ、歴史を振り返ると、「システムから外れた者」が社会に大きな変革をもたらしてきたことが分かります。彼らは当時の社会では「異常」とされましたが、後の世代に大きな影響を与え、社会の進化に不可欠な存在でした。
例えば──、
- ガリレオ・ガリレイ:地動説を唱え、当時の宗教的・科学的システムから排除されたが、科学革命の先駆けとなった。
- マーティン・ルーサー・キング・ジュニア:人種差別に立ち向かい、既存の社会システムに挑戦したが、公民権運動を推進し、平等と人権の拡張に大きく貢献した。
- スティーブ・ジョブズ:従来のビジネスモデルや製品開発の枠にとらわれない発想で、テクノロジー業界に革命を起こした。
これらの例は、システムから「外れた」とされた人物が、むしろ社会の進化と革新に重要な役割を果たしてきたことを示しています。すべての者がそうであるとは限りませんが、これは「社会の進化は、異常者や異端者によって起こる」と換言することもできそうです。
AI時代における社会システムの変容
人工知能──AI──の急速な発展は、僕たちの社会システムに大きな変化をもたらしつつあります。AIがもたらす変化は、多様性を受け入れる柔軟なシステムの構築を促進する可能性があると言えるでしょう。
- 労働市場の再構築:AIによる単純作業の自動化により、人間にはより創造的で高度なスキルが求められるようになる。これにより、個々人の独自の能力や視点が重視される社会へと変化していく可能性がある。
- 意思決定プロセスの変革:AIによる膨大なデータ分析と高速な処理能力は、政策形成や社会の意思決定に大きな影響を与える。これにより、より客観的で多角的な視点からの判断が可能になり、多様性を考慮した政策立案が進むかもしれない。
- 二項対立的思考の限界:AIの複雑な判断能力は、人間の二項対立的な思考の限界を浮き彫りにする。AIは多様な要素を同時に考慮し、より柔軟な解決策を提示することができる。これにより、社会システムもより複雑で多様な形態へと進化する可能性がある。
- 個別最適化の実現:AIは個人の特性やニーズに合わせたサービスを提供できるため、画一的なサービスでは対応できなかった多様なニーズに応えることができる。これにより、社会全体がより包括的になる可能性がある。
要するに、AI技術の発展によって、労働への価値観が変わり、合理的な判断が可能になり、認知の歪みが減り、よりパーソナライズされたサービスを享受できるようになっていく──ということ。
新しい家を建てるには古い家を一度ぶっ壊す必要があるように、今、現実世界では、AIがあらゆる場面において前時代的な思想や概念、システムを破壊し、凄まじい勢いで再構築が進んでいます。これはある意味、ヒーローとヴィランの垣根が取り払われ、その関係性がさらに混沌化するということでもあり、これまでの既成概念がまるっと入れ替わる可能性をも示唆しています。
二項対立を超えて。今、できること
現代では二項対立的な考え方が蔓延している。ゆえに、誰もがヴィランになる可能性がある。しかし、それはAIによって解決される日が来るのかもしれない──。
とはいえ、今からでも、二項対立的な思考から脱却し、多様性を真に受け入れるためにできる取り組みはあります。
- 柔軟な思考:新しい考え方や価値観を積極的に受け入れる姿勢を持つ。固定観念にとらわれず、常に自分の視野を広げる努力をする。
- 対話の促進:異なる意見を持つ人々と建設的な議論を行う。多様な視点を理解し、互いの違いを尊重しながら、共通点を見出す努力をする。
- 共存の実践:多様な価値観が共存できる環境づくりに貢献する。職場や地域社会など、身近な場所から始めて、徐々に範囲を広げていくことができる。
- 自己認識と他者理解:自分自身の偏見や固定観念に気づき、それを克服する努力をする。同時に、他者の背景や経験を理解しようとする姿勢を持つ。
- 継続的な学習:社会の変化に合わせて、常に新しい知識やスキルを学び続けることが重要。特に、AIや新しいテクノロジーに関する理解を深めることで、変化する社会に適応する力を養うことができる。
これらの多くは、AI──特にChatGPTなどのチャット型とのやり取りの中でも培うことができます。日常の中で「これおかしくねえ?」と思うことや疑問、ネット上での炎上、議論などに関する自分の考えをAIに壁打ちするだけでも色々な発見があります。
AIの出力は良くも悪くも"平均"であるため、特に、二項対立的な考え方などの認知の歪みに対しては有効に機能するような気がしています。
まとめ
人間の創造物である社会システムは、常に変化し、進化する可能性を秘めています。二項対立的な思考から脱却し、多様性を真に受け入れることで、人はより豊かで包括的な社会を築くことができるはず。
普通でない者が犯罪を犯し、社会を破壊するのか──。あるいは、悪意のない二項対立的な思考が普通と異常を切り分け、トガヒミコのようなヴィランを生み出すのか──。ヒーローとヴィランの違いは、社会というシステムで正常に機能するか否かという問題なのか──。
普通という異常性が社会全体に蔓延している現代を生きる僕たちは、今一度、こうした問題と向き合う必要があるのかもしれませんね。