これまでの人生で薄っすらと感じてはいたものの、ずっと目を背け、見て見ぬふりをし続けていたこと。
「自分が嫌い」
僕にとって自分のことが嫌いという感覚は、もはや割り箸の袋に入っている爪楊枝並みに当たり前のことだったので、特に意識したことはありませんでした。
しかし、20代後半にPTSD+うつ病と診断されたことで、奇しくも「本当の意味で自分と向き合う時間」が生まれ、ようやく根本的な問題が見えてきたわけです。
一度その問題に気づくと、自己否定・自己批判・自己嫌悪のエビデンスハッピーセットが『やぁ』と数珠つなぎで現れ、その度に"腑に落ちる"という感覚を得ました。
腑に落ちる感覚というのは、ちょうど精神科で『うつ病やで』と言われたときに似ていて、ショックというよりは安心、衝撃の事実というよりは予想の範疇といったものに近いです。
喉に刺さった魚の骨がようやく取れた瞬間──、長年の疑問が解けた瞬間──といえば分かりやすいでしょうか。
そうして心の奥底や脳の片隅でだらっと蟠っている"得体の知れない引っ掛かり"の正体がやっと判明し、ついに「自分は自分のことが嫌いである」という事実と向き合うに至ったのであります。
成功体験を積むことで「自信」は得られるか?
結論から言いましょう。
自分のことが嫌いである限り、いくら成功体験を積んだところで自信には繋がらない。
これまでの経歴を見てもらっても分かる通り、僕はこれまで、出来うる限りの「人と違うこと」を行動に移してきました。
自分ではやりたいことをやってきたつもりではありますが、その行動原理にはやはり、自信のなさ、自己肯定感の低さがあったのだと思います。
常に自己否定的であり、「自分はロクでもない人間だ」とか「自分は劣った存在だ」とかいう観念が渦巻いているからこそ、人と違う体験をして自分に自信を持ちたかったのかもしれない。
結果、バンドマンとして何百回ステージに立とうとも、日本一高いバンジージャンプを飛ぼうとも、自転車で日本を旅しようとも、鹿や猪を解体しようとも、アメリカをキャンピングカーで横断しようとも、海外に移住して会社を興そうとも、富士山を登頂しようとも、自身のインタビュー記事が公開されようとも、自分の好きなことで月に何十万と稼ごうとも、別々の活動でテレビ・ラジオ・新聞・本などに露出しようとも、SNSでどちゃくそにバズっても、一向に自信は持てませんでした。
もちろん、周りの人は「すごい」「才能がある」「センスある」「成功者だ」「勇気ある」と褒めてくれたし、そのことは素直に嬉しかったです。
ただ、そうしたとき頭に真っ先に浮かぶのは『本当か?』というクエスチョンマークであり、心の何処かでは常に『お世辞だろう』や『社交辞令だろう』といった"疑いの目"があったこともまた事実。
容姿や運動神経、頭のよさ、センスや才能をいくら褒められたとて、自分で自分を嫌っている以上、すべては帳消し──、否、むしろマイナスに作用してしまうのです。
まさに、インポスター症候群(自分の力を信じられない状態に陥っている心理傾向)といったところですね。
だから、誰かを頼ること、自分の欲求を満たそうとすること、他者に恋愛感情を持つことなどを『加害』や『罪』と捉えてしまいがちなのかもしれません。
病的なまでの自信のなさは「過去のトラウマ」にある?
異常なまで自分に自信が持てない原因は、ほぼ間違いなく精神的な問題から来ており、それは「過去のトラウマ」に深く関係していると僕は考えます。
15年以上にも渡る宗教の束縛と洗脳──。中学時代に受けたイジメ──。こうした自分一人の力では抗うことの出来ない苦難の前では、人はだいたい同じような結論に辿り着く。
「そうか。自分が悪いのか」
特に幼少期におけるトラウマの多くは、どう考えても"周囲の人間"や"環境"の質が絶望的なまでに悪いことに起因するというのに、人間という生き物はいつだって自分で自分を駄目にしちまう。
事故や災害、身近な人の死でさえ、そう思ってしまうんですよね。あのときこうしていれば──とか、あのときあんなことを言わなければ、思わなければ──と。
だけれども、まあ、関係ない。それはもうびっくりするほど関係ない。誰がどこで何をしようとも地震は起こるし、台風は生まれるし、森の中で木は倒れる。
そんなこと分かりきっているのに、次の瞬間にはダークサイドへご案内。自責の念、自己嫌悪、罪悪感、自己否定、自傷、抑うつ、逃避、絶望──。
結局は「自分を嫌うことになった原因」ときちんと向き合わない限り、自信も、自己肯定感も、永久に持てないってことなんですよね。ああ、ジーザス。
「自分と向き合う」とは何か
これまで自分なりに自分とは向き合ってきたつもりでした。モーニングページを続けてみたり、ストレングス・ファインダーで才能の診断をしてみたり、自己理解のために色々な本を読んでは実践してみたり──。
それでもきっと、本当の意味で自分と向き合ってはいなかったんでしょう。どこまでも纏わりつく、自分と向き合っている感、自己理解している感、コレジャナイ感。拭いきれぬ、感。雰囲気。ふり。偽。
やりたいことを見つける前に、自分が本当にやるべきだったのは、過去のトラウマの整理であり、認知の歪みに気づくことであり、自分を受け入れることだった。
自分を変えたい、人生を変えたい、成功したいという思いは誰しもあるとは思いますが、今の自分を否定している限り、そこへは辿り着けやしない。
ちょっと立ち止まって少し考えれば簡単に分かるような、こんな単純な解に気づくまでに30年もかかってしまいました。いや、30年かけたからこそ気づけた、のかな。
『いっけえええええ~!』とタイムリープできることもなければ、『俺たち・私たち、入れ替わってるー!?』という事態に巻き込まれることも、ある朝、気がかりな夢から目ざめて自分がベッドの上で一人の米津玄師に変ってしまっているのに気づいた──なんてこともないわけで。
どう頑張ったって、自分は自分という人間をやめることはできない。どうせ自由の刑に処せられているのなら、自分を受け入れてしまったほうが楽。
僕が本当に必要としていたのは、成功体験でも、実績でも、他人からの承認でもなく、他でもない自分からの承認であり、ありのままの自分を受け入れることだったようです。
自分のことを好きになれるまでには途方もない時間がかかるかもしれませんが、せめて「自分が嫌い」という状態を脱するところまでは行きたいと思いながら日々をなんとか生きています。
自分と向き合うためにやったこと、やっていること
ここからは、特に効果があったと思う「自分と向き合うためにやったこと、やっていること」をメモしておきます。
トラウマの整理と認知の歪みの解消:月1回の心理カウンセリング(認知処理療法)
うつ病の投薬治療と並行して行っていた月1回のカウンセリング。約1年ほど通っていましたが、ここでだいぶ認知の歪みの解消とトラウマの整理ができましたね。
当時は稼ぎもほとんどなかったので毎月のカウンセリング料はかなり痛い出費でしたが、認知処理療法(CPT)の勉強会と言い聞かせ、なんとか続けていました。読みは間違ってなかった。
『こころを癒すノート』の実践
カウンセラーの先生に「トラウマ治療におすすめの本ないですか?」と聞いて教えてもらった『こころを癒すノート』。
認知処理療法の自習帳ということで、自分のペースでトラウマと向き合うことが出来ました。他の出来事にも応用できるので、超いい買い物でした。1,000円ちょっと。
『マインドフル・セルフ・コンパッション ワークブック』の実践
『マインドフル・セルフ・コンパッション ワークブック』は、正直、過去5年で手にしたどの本よりも手応えを感じています。自己受容スキルを鍛えるためのワークと言えば分かりやすいか。
「自分を受け入れ、しなやかに生きるためのガイド」と銘打たれているように、強い自己否定感がある人ほどすぐに効果が現れる良書だと思います。
自己受容のためのワークやテクニックが複数紹介されているので、自分に合った方法を無理せず組み合わせられる点も評価高い。特に瞑想の理解が深まったのは良かった。
日常生活における様々な場面でめちゃくちゃ役に立つし、応用も効く。ただ、効き目が強い分、良くも悪くも心の体力をゴリゴリ削られるので、適度に休憩を挟みながらの継続的実践がマストです。
「モーニングページ」の実践
モーニングページは『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』で紹介されている「毎朝30分早く起きて、ノート3ページ分の余白を埋める」というもの。
僕は、無理せず自分になりに心地よく続けられるライン──A5ノートに最低1ページ──にハードルを下げて実践中ですが、正直、これまではあまり効果が感じられませんでした。
ですが、先に紹介した通り、認知処理療法(CPT)やセルフ・コンパッションの実践を始めてから、モーニングページの効果も明らかに変わっていったんですよね。
なんというか、心の表面ではなく、奥から、汚れが落ちていくような、そんな感覚。別に書くことはそんなに変わってないんだけどね。
ノートを使った自己開示はそれだけでも有効ですが、認知処理療法やセルフコンパッションと組み合わせると効果が掛け算になるのは今後の人生における良い発見でした。