社会で演じる「役割」に飲まれると人は疲弊する

社会の中で生きるということは、役割を演じるということである──。

人は生きている中で知らず知らずのうちに「役割」を演じています。このこと自体は決して悪いことではないし、偽りや欺瞞といったものでもありません。

問題なのは、演じている役割に飲まれてしまうことです。

人は良くも悪くも慣れる──順応する生き物。裏を返せば、役割に囚われてしまうのは真面目な証拠でもある。

しかし、役割を全うしようとするあまり、本来の自分を見失ってしまうことがあるのも事実です。

仮想的な代理人を通じて間接的に生きるということ

ここで僕の大好きなアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』から、天才犯罪者・槙島聖護の言葉を引用したいと思います。

読むといい。戯曲「さらば映画よ」。みんな誰かの代理人なんだそうだ。代理人たちがさらにアバターを使って、コミュニケーションを代理させている。

誰かの代理人というのは、個人が完全に自分自身として行動するのではなく、社会的な役割や他人の期待に応じて行動することを指していると考えられます。

現代社会を生きる人間は、親、友人、会社、あるいは社会全体の期待や価値観に沿って行動し、自己の本質的な部分を見失うことがある──という見方ですね。

また、『代理人たちがさらにアバターを使って、コミュニケーションを代理させている。』といったセリフは、現代のデジタル社会を暗示しているようにも思えます。

SNSやインターネットを通じて、人は、自分のオンライン上の人格──つまり、アバターを用いてコミュニケーションを取ることが増えています。

これによって"リアルな自己"ではなく、オンラインでの「代理の存在」が他者と関わる役割を担っているということです。

そういった意味では、顔出しかどうか、実名かどうかはさほど重要なポイントではないのかもしれません。

結局は「どこまでオンライン上の人格に"私"を代理させるか」という、程度の問題なのですから。

日常生活における人々の行動は「演劇」なのか

社会学者アーヴィング・ゴフマンは、日常生活における人々の行動を「演劇」になぞらえて解釈したことで知られています。

日常生活において、他者とのやり取りの中で自分をどのように「演出」し、他者にどのような印象を与えようとするか──。

ゴフマンが提唱した「演劇モデル」には以下の概念があります。

舞台:人々が他者の前で演じる場所。自分のイメージや期待に合わせた「仮面」を被って、役割を演じる。

例:職場での態度や友人との会話で見せる自己

裏舞台:自分を気楽にさらけ出せる場所。仮面を外し、他者の期待や社会的規範から自由になった「本来の自分」に近い部分を見せる。

例:家庭内やプライベートな空間

役割:社会的ば場面に応じて演じるキャラクター。ゴフマンは、人々が他者からの期待に基づいて行動を選択し、特定の状況や関係性に応じて「役割」を変えると考えた。

印象操作:他者に与える印象をコントロールしようとする行動。人々は常に他者にどう見られているかを意識し、自己のイメージを管理するための戦略を取る。

人間は、社会的文脈の中で「誰か」を演じることで、他者との関係を築きます。職場での態度、友人と会うときの態度など、様々な役割を果たしているということです。

繰り返しになりますが、こういった行動は"偽り"でもなければ、"欺瞞"ではありません。あくまでも社会の一部であり、人間関係を維持するための自然な方法だとゴフマンは定義しています。

役割に飲まれるということ

思うに、現代社会では、ゴフマンの言う「裏舞台」、つまり、仮面を外し、他者の期待や社会的規範から自由になる場所、あるいは時間が少なすぎるのではないでしょうか。

“自分は何者か”を強制されるSNSの中で感じる違和感でも書きましたが、特にSNSにおいては自己を「見える化」して他人に評価されることが当たり前になっています。

つまり、裏舞台の領域が減り、生活の大部分が「舞台」と化している──ということです。

役割を演じることは、人生を生きるうえで欠かせない要素です。しかし、きちんと演じようとするがあまり、必要以上に無理をしたりしてしまう人が多すぎるように思います。

例え、その考えや行動が世間一般的に正しく、素晴らしいものだとしても、演じる「役割」によって半ば強制的に強いられたものであるとしたら、苦しくなるのは当たり前。

そう考えると、人々が自分の意思ではなく、他者の期待や社会的な役割に縛られているという見方もあながち間違いではないのかもしれません。

役割が先行しすぎている現代

デザインされた「幸せ」と「楽しい」という概念では『"幸せ"や"楽しい"という概念が産業によってデザインされている』という話をしましたが、どこか通ずるところがあります。

消費者の求めるものがあり、それを察知した生産者がそのものを生産する──。需要が先にあり、供給が後という構造。現代では、供給が先行しているケースが本当に多い。

iPhone利用者が毎年のバージョンアップデートを望んでいるわけではありません。単に企業が「新しいiPhoneにはこんな機能が付いています。12万円です。欲しいよね?」と言っているに過ぎません。

産業によって利用者の欲望が先行して提供され、消費者はお金や時間を使ってそれを手に入れる──。需要と供給が逆転してしまっているんですよね。

これは、社会で「役割」を生きる人々にも言えることなのかもしれません。

つまり、他者や社会から期待される「役割」が先行しすぎて、うまく"私"を代理できていないのではないか、ということです。

役割が個人のすべてを規定することによる副作用

それぞれの役割に与えられる期待が高まりすぎると、それを演じることによる副作用が問題となります。

「こうあるべきだ」「こうでなくてはならない」「これはこういうものだ」「きっとこうに違いない」

こうした思考に陥ると、本来、人生において役割が担っていた領域が不必要に拡張され、アイデンティティに悪影響を及ぼす危険性があります。

例えば、"女"という役割について考えてみると、現代においても「女は子供を生まねばならない」や「家事をするべきだ」といった古い価値観が根強く残っています。

こうした凝り固まった固定観念は社会的圧力となり、個人が本来持っている自由な選択や自己実現の機会を著しく制限することに繋がります。

結果、人々のアイデンティティや自己肯定感に悪影響を及ぼしてしまう、と。

これは何も女性だけに限らず、男性や他の社会的な役割にも同様に当てはまる普遍的な問題と言えます。

役割が個人のすべてを規定するようになると、自分らしさを見失い、他者あるいは社会の期待に応えるために生きるような生き方になってしまうのです。

多様性を尊重することによるジレンマ

なんというか、現代社会は「個性を発揮しましょう」「多様性を尊重しましょう」と言うには、役割が完成しすぎているように思うんですよね。

多様性を尊重することは現代社会の重要な価値ではありますが、その過程でマイノリティに対する差別が逆に際立ってやいませんか、と。

マイノリティを特別に扱おうとするあまり、かえって「異様さ」や「違い」が強調され、そうしたジレンマに陥ってしまう。

目指すものは"平等"であっても、結果的にそれが他者との違いを再確認させ、無意識的に差別や偏見を助長する。つまり、マイノリティという"役割"が強調される形となる。

特定のグループに対する支援や配慮が行き過ぎると、逆にそのグループを他者として扱う「区別」となり、それが差別の温床になる可能性があります。

また、反対に、マイノリティがマジョリティに強い影響を及ぼすことで、特定のルールや規範を押し付けることも珍しくありません。

たしか、ナシーム・ニコラス・タレブも『身銭を切れ』の中で似たようなことを言っていたような。

不平等を減らすために人々が差別や偏見に気付くことは大切ですし、平等を実現する具体的なアクションを考えることも重要だと思います。

しかし、SNSなどで偏った情報に触れたり、社会や他者から期待される役割に縛られたりすることで、こうした本質的な問題について考える時間や余裕が失われがちなのも確か。

まとめ

結論、自分が「役割」に飲まれていないかを定期的にチェックすることはとても大事です、というお話でした。

まずは、裏舞台──つまり、仮面を外して、自分を気楽にさらけ出せる場所をきちんと確保することから始めよう。そうだ、SNSやめよう(定期)