脳の可能性を狭めているのは"言葉"かもしれない

一般的に「脳の成長は"20代半ば"で止まる」とされています。

しかし、最近の研究によると、それはどうやら誤りであるらしい。

実際に、特定の脳領域では「神経新生」と呼ばれる"生涯にわたって新しいニューロンが生成される現象"が確認されています。

特に海馬(記憶と学習に関与している脳の一部)での神経新生は成人後も続くことが知られており、そのプロセスは高齢になっても続くそう。

もちろん脳にとっての成長は、新しい神経細胞の生成だけでなく、シナプスの再配置も含みます。

つまり、脳には、新しい経験や学習により、既存の神経細胞間──シナプス──の接続が変化し続けるという「神経可塑性」が備わっているのです。

よって、脳の重さだとか、神経細胞の数だとか、そういった要素だけで一概に脳の機能を説明することはできません。

事実、天才物理学者アインシュタインの脳の重さは1230グラムで、平均的な成人男性の脳の重さである約1400グラムよりも軽かったことが判明しています。

僕はアメリカでアインシュタインの薄くスライスされた脳みそ(本物)1を見たことがありますが、シンプルに『死んでまで脳みそ切り刻まれるの、かわいそ』という小学生並みの感想しか出てきませんでした。

さて、今回は「脳の可能性を狭めているのは"言葉"かもしれない」という話をしていきたいと思います。

言葉による思考は制約をもたらすのか?

脳が生涯にわたって進化し続けるということは、冒頭でなんとなく感じ取っていただけたかと思います。

では、次は脳の可能性について──特に「言語」と「思考」の観点から考えていきましょう。

サピア=ウォーフの仮説

興味深い理論に、サピア=ウォーフの仮説(言語相対性仮説や言語相対論とも呼ばれる)があります。

この仮説は、二つの主要なバリエーション──「弱い形」と「強い形」を持っています。

1.弱い形(言語相対性仮説)

「言語は思考に影響を与える可能性がある」

例えば、色の分類は言語によって異なるため、その言語の話者は色を見るときに異なる方法で認識する可能性があります。

日本では「青」と「緑」は異なる色として扱われますが、一部の言語ではこれらは同じ色と見なされ、その区別がないこともある──。

つまり、こういった違いによって、言語ごとに色の見え方や考え方に微妙な差異が生じることがあるのです。

2.強い形(言語決定論仮説)

「言語が思考や認識を完全に決定する」

日本語では、時間は流れるものとして「過去・現在・未来」という明確な区切りで認識されますが、ホピ語2では「すべての事象は連続的な流れの中にある」と考えられています。

つまり、ホピ語の話者は時間に対して日本語話者とはまったく異なる認識を持っており、時間を区切る概念そのものが言語によって異なっていると言えます。

要するに、1.弱い形は『言語は思考に影響を与える"かも"しれないね』と、そして、2.強い形は『言語が思考や認識を決定しているのだ!』と主張しているということです。

言語は思考に影響を与えるが、決定的ではない

言語相対論における弱い形、すなわち「言語は思考に影響を与える可能性がある」というのは、おそらくほとんどの人が納得できるものだと思います。

問題なのは、強い形のほうの「言語が思考や認識を"完全に"決定する」という主張。これはどうも納得がいきません。

「強い形」に対する反証

例えば、赤ちゃん。赤ちゃんたちは皆すべからく、言葉を話すよりも前からいろいろなことを学習していきます。

物を掴んだり、おもちゃで遊んだり、親の顔を認識したり──。こういった行動は、赤ちゃんが言語を使わずとも何らかの形で思考していることを示しています。

もしも言語によって思考が完全に決定されるのであれば、言葉を知らない赤ちゃんはこれらのことを学ぶことができなくなってしまう。それはおかしい。

他にも、言語障害を持つ人々は言葉を使わずとも様々な方法でコミニュケーションを取っている──すなわち、思考することができています。

また、仮に異なる言語がそれぞれの思考を完全に決定しているならば、世界中の人々が英語などの共通した第二言語を介して効果的なコミニュケーションを取れていることの説明もつきません。

よって、結論としては、言語は思考に影響を与えるが、決定的ではない──強い形は誤りであると言えるのです。

弱い形=言語が思考に与える影響力が弱いわけではない

しかし、弱い形が真であるからと言って、言語が思考に与える影響が弱いわけではありません。

確かに、言語の他にも、視覚的なイメージや直感など、非言語的な思考も存在していることは事実です。

とはいえ、言語(言葉)が人の思考に与える影響はあまりに大きい。

言語は、単なるコミニュケーションツールとしてだけではなく、人がどのように世界を認識しているか、あるいは解釈しているかに影響を与えています。

言葉による思考の制約の可能性

1.情報のカテゴリ化

言葉は情報をカテゴリ化し、記憶する方法に影響を与えることができます。

例えば、ある言語に特定の色を表す単語が豊富にある場合、その言語の話者は色の差異をより詳しく識別する傾向にあります。

これは、言葉が情報のカテゴリ化──つまり、認知的な枠組みを形成する一例となっていることを示しています。

2.文化的な影響

言葉は文化と深く結びついており、特定の文化的価値や慣習が言語を通じて伝えられます。

つまり、言葉は特定の価値観や行動様式を促す可能性があり、これによって思考が制約されることがあると考えられます。

3.表現の限界

言葉には構造や語彙による限界が存在し、これが思考の表現に影響を与えることがあります。

特定の概念、あるいは感情を表す単語が言語に存在しない場合、それを思考するコミニュケーションでの表現が難しくなるということです。

日本語ネイティブ以外の人に万葉集や百人一首の世界観を説明しようとしても、日本人独特の感性を言葉のみで完全に表現するのは無理ゲーに近い。

言葉によって限界が設定されている可能性

言葉は情報を圧縮し、カテゴリ化し、文化を形成し、伝え、思考の表現を可能とする人類最高のツールです。

言葉が生まれたことによって、この複雑怪奇な世界が単純化され、理解が進んだことは間違いありません。

ただし、世界の理解度を上げるためには、そろそろ人類は"言葉を超える何か"を発見し、活用していく必要があるとも感じています。

言葉による思考の制約がある以上、ある概念や文化、意識的な限界を突破することは容易ではありません。

例えば、スポーツなどの領域では、「これまで不可能とされていたことが一度達成されると、他の人々もそれが可能であると認識し、目標に向かって努力するようになる」という現象が見られます。

これはつまり、言葉──「世界記録が破れる」など──がそれまでの制約を解除し、新しい信念を形成、最終的に人々の内面的な限界感を変えたということに他なりません。

しかし、言葉によって限界を超越できるということは、言葉によって限界が設定されているとも言えるのではないでしょうか。

言葉は人類の可能性を押し上げる強力なツールとなっている一方で、"足かせ"のような働きをしているのではないか──。

だから、言葉の制約が一時的に解除される夢の中では自由に思考し、自由に動き回ることができるのではないか──。

脳の可能性を狭めているのは、他でもない"言葉"なのではないか──。

最近はそんなことをぼんやりと考えながら寝るのが趣味です。

思考の"もっと先"が見てみたい

言葉による思考は、自由で広いように見えて、実は案外、不自由で狭いものなのかもしれません。

言葉による思考が当たり前になっているせいで隠れてしまっている可能性も大いにありそう。

思考のもっと先を見せてくれるのは、ニューラリンクかもしれないし、大規模言語モデルかもしれないし、量子コンピュータかもしれないし、宗教、あるいは宇宙、はたまたアイスクリームだったりするのかもしれません。

いずれにせよ、今ほど楽しく面白い世界は過去のどの歴史においてもないと僕は思っています。

言葉は思考だが、思考は言葉ではない。理解できたようで、理解できていないような不思議な感覚。当分、じっくり考えます。

まとめ

・脳は生涯にわたって進化し続ける
・言語によって思考が制約されている可能性がある
・非言語的思考の方法もあるが、それでも言語思考の影響は大きい
・脳の可能性を狭めているのは言葉
・言葉による思考のせいで隠れている可能性も大いにあるのかもしれない

  1. アインシュタイン博士の脳が、米フィラデルフィアのムター博物館で公開中
  2. ホピ語(Hopi)は、米国アリゾナ州北東部のホピ族が話す、ユト・アステカ語族の一言語。今日のホピ族はほぼ英語しか話さなくなっている。