「本を読む必要ってあるの?」
「本を読むことの大切さって何なの?」
「なぜ読書をしなければいけないの?」
このような疑問を持ったことはありませんか?
正直に告白すると、ちょっと前まで僕にとっての「読書」とは単なる娯楽であり、趣味でした。
でも、あえてハッキリ断言しますが、やっぱり「読書はしないといけないこと」です。
読書をしない人は、確実に時代に取り残されます。そればかりでなく、自分が損をしていることにすら気づけなくなる危険性だってある。
これは決して悲観的に考えているわけではなく、大げさに言っているわけでもありません。
「なぜ読書をしなければいけないのか?」
この記事を通して、改めて「読書の必要性」について考えてみてはいかがでしょうか?
読書をしないといけない本当の理由
読書をしないといけない理由は、大きく分けて2つあります。
2つの理由
- 知識や情報を得るため
- 本質を見抜く力を養うため
新しい知識や情報を得る——、これは説明するまでもありませんね。
知識は人生における最大の武器であり、誰にも奪うことのできない唯一の宝です。
ただ、知識や情報を得るためであれば、別に読書でなくともいいですよね?
ニュースやネットからでも情報を得ることはできますし、今の時代ならYouTubeでいくらでも授業形式で質の高い講義を受けられます。
『中田敦彦のYouTube大学』や『モチベーション紳士』あたりのチャンネルが分かりやすい例でしょうか。
きっと、「本を買って自分で読むより、本の要点をぎゅっとまとめてくれた動画を観たほうが楽だし、手っ取り早いよね」と考える人も多いと思います。
でも、読書をしないといけない本当の理由は、「知識や情報を得るため」だけではありません。
むしろ、「本質を見抜く力を養うため」という点にこそ、読書の最大のメリットがあるのです。
本質を見抜く力=教養
では、「本質を見抜く力」とは一体何なのでしょうか?
教育学者である斎藤孝氏は、『読書力』(岩波新書)でこう言っています。
目の前の一つの神秘にすべて心を奪われ、冷静な判断ができなくなる者は、知性や教養があるとは言えない。
さらに、元大阪大学総長であり、哲学者である鷲田清一氏は、「教養とは『価値の遠近法』である」とし——、
- 絶対なくしてはならないもの、見失ってはならぬもの
- あってもいいけどなくてもいいもの
- 端的になくていいもの
- 絶対にあってはならないもの
の4つを、どんな状況であっても見分けられる眼力のこととしています。
つまり、本質を見抜く力とは教養であり、情報を整理できるということであり、情報の取捨選択ができるということであり、総合的な判断が下せるということです。
本質を見抜けないとどうなるか?
本質とはつまり、大事なポイント——要点です。
要点を掴む能力が低い人は、仕事が遅く、いわゆる「要領が悪い人」というレッテルを貼られます。
これは、仕事の指示を正しく理解できていないということであり、作業の優先順位が付けられていないということでもあるでしょう。
誰かと会話をしていても、相手の言っていることの要点が分からず、脈絡のない会話になってしまうかもしれません。
会話というのは、相手の話の中から要点を見つけて、その点に関して自分の考えなり、知っていること、思っていることなりをくっつけて相手に返す行為を繰り返すことです。
よく会話はキャッチボールに喩えられることが多いですが、まず、ボールである相手の話の要点を見極めないことには、バットで打ち返すことは難しいですよね。
要領が悪いのは日本の教育のせい?
日本の教育はその特性上、どうしても「受け身」の詰め込み式になってしまいがち。いわば、「超がつくほど丁寧な教育」とでも言いましょうか。
机に座ってさえいれば先生が知識をどんどん放り込んでくれますし、教科書に沿ってきちんと勉強していけばテストで良い点を取ることは別段難しくない。
でも、授業の範囲以外の答えを書くと——例えその解答が正しかったとしても——問答無用で不正解にされてしまうのが、今の日本の教育の実情と言えるのではないでしょうか。
教科書通りの答えが一番素晴らしい、規律を守ることが何よりも重要だ——。学生のうちはレールの上を歩くことを強制されていたにもかかわらず、社会に出た途端、急に「要領のよさ」を求められる。
「えっ、なんかおかしくない?」とは思いつつも、何が分からないか分からないから結局そのまま。言われるがまま。そのうち、「別に困ってないし、いっか」となり、やがておかしいと思っていたことすら忘れてしまう——。
ルールを決めるのは、得をするのは、いつだって頭のいい——つまり、要領がよく、本質を見抜く力があり、総合的な判断が下せる——人たちです。
例え日本の教育が悪かったのだとしても、この事実は変わりません。
一番の危険は「自覚がない」こと
頭のいい人たちは、あらゆる手を使って、消費者の時間やお金を自分のものにしようとします。
たとえば、スマホのゲームです。
自分で娯楽のためと割り切って、時間をムダにしてしまっているという自覚が多少なりともあれば、特に問題はないでしょう。
でも、自分ではコントロール不可に陥り、際限なく時間とお金を費やしているようでは、他人のために生きているようなもので、この先ずっと損をしてしまいます。
そうならないためにも、物事の本質を自分なりに見極める必要がありますし、もちろん情報の取捨選択の能力も必要です。これはTwitterなどのSNSにおいても、同じことが言えますよね。
別に「スマホは悪だ」と言いたいわけではなくて、いろいろな情報を総合的に判断して決断しているどうかが重要だ、ということです。
そういった観点から見ても、読書はとても有効な手段だと言えるのではないでしょうか?
読書は著者との会話である
フランスの哲学者ルネ・デカルトは『方法序説』(岩波文庫)の中でこう言っています。
すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもので、
しかもその会話は、彼らの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備のなされたものだ。
読書とは言うなれば、超一流の講師による個人レッスンみたいなものです。
ハイレベルな才能を持ち、血のにじむような努力を重ね、気の遠くなるような途方もない時間を費やして到達した認識を、二人きりで丁寧に話してくれる——。
世界を代表する知識人や偉人たちが、国境を越え、時間という概念を越え、生死の世界さえも越えて、自分ひとりだけに授業をしてくれる——。
冷静に考えたら、これほど手軽でコスパがよく、自己を成長させられる機会ってないです。本、読みましょう。
読書は読んだら読んだ分だけ上手くなる
たまに、「自分は頭が良くないから本を読めない」という人がいますが、ハッキリ言ってそれは間違った考えです。
読書は筋トレやマラソンのようなもので、やったらやった分だけ強くなるもの。
読めば読むほど要点を押さえる力が身についてきますし、情報の取捨選択能力や整理能力、集中力、語彙力も向上します。
読めない本が読めるようになった
僕は以前、ポアンカレの『科学と方法』(吉田洋一訳, 岩波書店)を読もうとして、1ページ目で断念したことがあります。
↑まったく読める気がしなかったポアンカレの『科学と方法』
すべて旧字体で書かれていた上に、書いてあることがまったく理解できなかった——まず章のタイトルが読めなかった——んですよね。
そうして、「うわあ、ぜんぜん読める気がしないなあ。こんなの読めるようになるの?」と思ってから2ヶ月ほど——冊数にすると小説や文庫、新書あわせて30〜40冊ほど読んだ後でしょうか。
つい最近になって、不思議と旧字体でもスラスラ読めるようになり、書いてあることも理解できるようになってきたんですよ。
これには正直言って、かなり驚きました。旧字体の勉強をしたわけでもなく、科学の勉強をしたわけでもなく、本の内容を理解できるようになっていたのです。
きっとこれまでの読書習慣によって、
- 単純に活字に慣れた
- 要点を発見できるようになった
- 他の本との共通点を見つけられるようになった
- 前後の文脈から旧字体の意味することをある程度予測できるようになった
といった良い変化のおかげかな、と思っています。
ちょっとずつ読書を習慣化していく
一日5分からでも良いので、「スキマ時間は読書」としてみるのがおすすめです。細かく時間を分けることで、だんだんと習慣が定着していきます。
「寝る前は読書」や「通勤・通学時で座れたときは読書」のように、読書を他の行動と条件づけておいたり、場所とセットにしておくと、習慣として身につきやすいですね。
コツとしては、「ちょっと背伸びしてようやっと理解できるかな」というレベルの本を段階を踏んで読んでいく、ということ。
最初は理解できない本だとしても、読書を続けていけば内容をだんだんと理解できるようになってきますので。
まとめ
どんなに低学歴だろうと、言語能力が低かろうと、知能指数が低かろうと、読書だけは裏切りません。
この世にあるすべての本が、あなたの味方です。
これまでに地球上で生まれた、類まれなる才能を持つ天才たちが力を貸してくれる——。
「なぜ読書をしなければいけないのか?」、「本を読むことの大切さとは?」という問いに対する答えは、そういったところにあるのかもしれませんね。
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