人は「幸せ」や「豊かさ」をどう捉えるべきか──。
現代社会では、多くの人がお金や成功、地位などの外的な要素によって幸せがもたらされると考えがち。
しかし、心から平穏や幸福を感じる瞬間は、案外、こうした外的なものに依存しないのかもしれません。むしろ、幸福とは自分自身の「心のあり方」によって大きく左右されるのではないか──と思うのです。
外的な成功が幸福を保証する?
現代の社会では、成功や物質的な豊かさが人生の目標のように扱われることが多々あります。
例えば、高層マンションに住み、豪華なワインを片手に映画を楽しむ生活──。確かにそれは贅沢で快適かもしれませんが、その一方で、心の中で過去の出来事に囚われたり、未来の不安に悩んでいるならば、その豊かさも感じられなくなるでしょう。
逆に、刑務所のような極限の環境であっても、内面的に希望や意味を見出すことができれば、その場所は「地獄」ではなくなるかもしれません。
ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」でも、ナチスの強制収容所という極限状況の中で、いかにして希望や人生の意味を見つけた人々の例が描かれています。
刑務所や強制収容所は極端な例としても、人は、どんな環境でも、心のあり方次第でそれを「天国」にも「地獄」にもできる可能性を秘めているんじゃないでしょうか。
内面的な幸福と外面的な幸福の違い
人間は、良くも悪くも「慣れる生き物」です。
豪華な生活も、慣れてしまえばそれが当たり前になり、感動や喜びを感じにくくなることがある。反対に、質素な生活の中でも、日々の小さな幸せを感じられる人もいる──。
他人や社会の基準で幸福や豊かさを測ろうとする限り、外的なものを追い求め続けても満足することは難しいと思うんですよね。もし物質的な豊かさが幸福をもたらすのなら、なぜモノで溢れる現代社会の中で病んでいる人がこれほど多いのか甚だ疑問です。
物質的な豊かさは永続的ではなく、欲望は尽きることがありません。他人と自分を比べて幸福を測っている限り、心からの幸福には到達できないのでしょう。
哲学や心理学に見る「心の自由」
内面的な平安に重きを置く考え方は、哲学や心理学でも広く語られています。
古代のストア派哲学では、外的な成功に依存せず、内面的な自己統制と心の自由を重視しました。例えば、マルクス・アウレリウスの『自省録』には、外的な環境や運命に影響されず、自己の心を磨くことが重要である──と説かれています。
また、近代の実存主義哲学でも、無意味に見える人生の中で自ら意味を見出すことが強調されています。アルベール・カミュの「シーシュポスの神話」では、どれだけ無意味に思える行為であっても、それをどのように受け入れ、対処するかが重要だと語られています。
幸福は、外部の環境よりも、自己の内面でどのように世界を捉えるかにかかっている──と言っても過言ではありません。
幸せは「現実をどう捉えるか」にある
実際、人がどう幸せを感じるかは、現実そのものよりも、それをどう捉えるかに大きく依存しています。同じ出来事でも、ある人はそれを「苦しい」と感じ、別の人は「チャンス」として捉えることがあるように。
心理学においても、認知行動療法(CBT)がこの考え方を支持しています。
人の感情や行動は、物事をどう解釈するかによって大きく左右される。他人や世界を変えることは難しい。しかし、自己の認知を変えることは今からでもできる──。
幸福を感じたいならば、自分の物事の見方を少し変えてみることが近道と言えるでしょう。
結局、幸せとは何か?
「外的要因で幸せを見出すべきか、内的要因に目を向けるべきか」という問いに、絶対的な正解はないのかもしれません。
僕たちが何を価値あるものとし、どう生きるかは、それぞれの選択に委ねられています。だからこそ、自分の内面に目を向け、本当に大切なものは何かを考える時間を持つことは、とても意義深いことなのです。
他人との比較や物質的な成功に固執する限り、幸福は常に逃げていくものなのかもしれない。けれども、自分自身の現実の捉え方や価値観を見つめ直すことで、日々の生活を豊かにするカギが見つかるはず──。
そういえば、スタジオポノックのアニメ映画『屋根裏のラジャー』にもこんな言葉がありました。
──本当かウソか。そんなこと大事じゃない。
何かを信じたいと思ったら、それは信じるに値するものなんだ。
大切なのは、自分が信じる物語だよ。
実にいい言葉です。
現代人にはもっと、騒がしい現実から離れ、自分の内面と向き合い、自分が信じる物語を探す時間が必要なのかもしれませんね。
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