デザインされた「幸せ」と「楽しい」という概念

産業によってデザインされた"幸せ"や"楽しい"という感情は、果たして真なのか──。

人間は型(概念)によって世界を認識している

ドイツの哲学者カント曰く、人間は世界をそのまま受け取っているのではなく、あらかじめ持っている型(概念)に当てはめ、それを理解しているとのこと。

例えば、パスタを茹でることを想像したとき、僕らは「パスタをお湯に入れたから・・茹で上がった」と自然に因果関係を認識します。

この"から"にあたるのが「原因と結果を結びつける因果関係」という型であり、そうした枠組みがあることによって「茹でたらパスタが柔らかくなる」といった認識を得られるわけです。

仮にこの概念がなかったら、お湯と茹で上がったパスタを結びつけることができず、単に「お湯が沸いている」という知覚と「パスタが柔らかくなった」という感覚があるだけになってしまいます。

このように人間は、自分の認識の枠組みを用いて、情報を整理──つまり、主体的にまとめ上げることで世界を認識しているんですね。

現代における主体的の行方

能動的に世界を理解し、自分の中にある枠組みを使って物事を解釈する能力──主体性──があるということは、当然、人間にも「自ら考え、行動する力(主体性)」を期待できるはず。

しかし、現代においては、人間に期待されていた「主体性」が、産業によって先取りされて差し出されている気がしてならないのです。

消費者のパッシブ化

多くのサービスや製品は"ユーザーフレンドリー"を追求するがあまり、逆に人々が自分で考えたり、行動したりする必要がなくなっている節があります。

例えば、アルゴリズムに基づく提案は、人が自分で何かを選択したり、考えたりすることを簡略化し、結果的に「主体性」を奪う形になっていますよね。

結果的に人間が受動的な消費者となりやすい現象──消費者のパッシブ化──が起きている、と考えられるのではないでしょうか。

SNSによる影響

SNSやメディアもアルゴリズムによって情報をカスタマイズし、ユーザーに合わせた情報が自動的に流れるような仕組みになっています。

そのため、受け取った情報をあまり批判的に吟味することなく、そのまま受け入れることが多くなっていく──。

こうした状況は、主体的に情報を選び、自らの視点で考える力が弱体化しやすい環境とも言えます。

労働のオートメーション化

労働市場においても、多くのプロセスがオートメーション化され、人間的な判断が縮小されつつありますよね。

単純作業やルーチンワークが機械に任されたり、標準化されることによって、人間の主体的な判断があまり期待されなくなっている──と。

この流れは今後、AI技術のさらなる発展によってより加速していくことが容易に想像できます。

効率化という面においては属人性の排除は合理的判断だとは思うんですが、そのしっぺ返し、もう来ちゃってる気がしてなりません。

人間の代わりに世界をまとめ上げる"産業"と"テクノロジー"

僕が言いたいのは、こう。

現代社会では、人間に期待されていた「主体的に世界をまとめ上げる力」が薄れ、その代わり産業やテクノロジーが「まとめ上げる」役割を果たすことが多くなっている。

要するに、自分の手で情報を整理したり、物事を判断したりする機会が、"便利"や"効率"などといった概念によって減少しているんじゃないか──と、そういう話です。

人間が持つ独自の洞察力や創造性が発揮できない、あるいは個々のスキルやアイデアが重視されない環境は、やりがいやモチベーションを失わせ、主体性を奪う。

もはや、ディストピア小説における「見せかけのユートピア」よろしく、人間が受動的存在と成り下がっている構図はすでに実現されつつあるのかもしれません。

デザインされた「幸せ」と「楽しい」という概念

人間に期待されていた「主体性」が、産業によって先取りされて差し出されている──。これは、産業によって「幸せ」が「楽しい」といった概念がデザインされていると換言することもできます。

産業は「楽しいってこういうものです」といったイメージと共に"楽しいもの"を提供する。消費者はお金と時間を使い、それを「楽しむ」。人はそうして自分の「好きなこと」を手に入れ、"楽しいもの"を提供する産業は利益を得る──。

本来、好きなこと、やりたいこと、楽しいもの、幸せを感じるものというのは、自分の中にあるもの。外から提供されるような類のものではない。

しかし、それが例えデザインされた虚構だったとしても、それを感じている人々にとっては紛れもない現実であり、本物なのです。

虚構の幸福で溢れる偽のユートピアは外から見ればディストピアそのものですが、そのことをユートピアで暮らす人々に言ったとて理解されることはまずないでしょう。

『お前が感じている"それ"は本物の幸福ではなく、偽物の幸福だぞ』と言ったところで誰がそれを証明できるのか。『お前は"欲望の対象"と"欲望の原因"を履き違えているぞ』と言ったところで、誰がそれを受け入れるのか──。

魚を釣りに行く人に魚をあげても喜ばないように、人には人の「昨日と今日とを区別するもの」が必要です。自由の刑の中での退屈を凌ぐには、何らかの「熱中」が必要です。

もしかしたら人間は、退屈を避けるためならば、自ら主体性を捨て、それが虚構と分かりつつも"偽の幸せ"に浸ることを良しとする生き物なのかもしれませんね。