そろそろ「苦労は美徳」という幻想、手放しませんか──。
今回は、なぜ僕たちが"成長"と"苦痛"をあたかもセットのように考えてしまうのか、その不思議な信仰について考えていきたいと思います。
「成長には苦労がつきもの」だなんて言いますが、むしろ、その考えこそが成長を邪魔しているのかもしれません。
苦労信仰と労働信仰の歴史的背景
日本社会には長年、「労働信仰」や「苦労信仰」と呼ばれる価値観が根付いています。これらは、「勤勉は美徳」とされ、人生や仕事で成功を収めるためには苦労が不可避であると信じられてきたからです。
マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に見られるように、労働が自己実現や社会的成功のための手段として重要視されるのは世界各国でも共通の要素です。
しかし、ウェーバーが強調したのは、勤勉さや努力はあくまで目的のための手段であり、苦痛そのものが目的化されるべきではないという点。
現代の日本では、この「手段としての労働」がしばしば「苦労そのものが美徳」という形に転化していると感じざるを得ません。
成長と苦痛の関係性。本当に苦労は必要?
確かに、成長には一定の苦労が伴います。人は、挑戦や不安定さを乗り越えることで新しいスキルや知識を得てきました。
しかし、この「苦労」はあくまで成長の副産物であり、苦労そのものが成長の要因ではないことを理解する必要があります。
J・S・ミルは、『自由論』において、個人の成長は選択の自由と責任を通じて育まれると述べていますが、苦痛や苦労を目的化した社会では、自由な選択肢が奪われることになります。
これからの時代は特に、苦労することが成長のための唯一の方法ではないという視点を持つことが重要なのではないでしょうか。
心的外傷後成長 (PTG) の誤用とその危険性
心的外傷後成長(PTG)という概念は、トラウマや大きな逆境を乗り越えた後に人が精神的に成長する現象を指します。
この考え方は、困難を経験することが人生を豊かにする可能性があることを強調しています。
しかし、この概念が誤って用いられると、パワハラやイジメ、嫌がらせが「成長のための必要な苦痛」として正当化されてしまうリスクがあります。
心理学者マーティン・セリグマンのポジティブ心理学では、成長や幸福感は苦痛ではなく、意義ある目標に向かって進む過程で達成されるとされています。PTGを免罪符にすることは、他者に不必要な苦痛を与える行為を正当化する危険性があります。
というわけで、『お前のためを思って言ってるんだ!』などと言って苦痛を与えて来るような輩に情け容赦は不要です。証拠を揃え、然るべき機関へ提出しましょう。
苦痛を目的化する社会の課題
現代の日本社会では、時に「苦痛」そのものが目的化され、真の目標達成のための合理的な手段が軽視される傾向があります。
カミュの『シーシュポスの神話』では、人間が意味のない苦労を繰り返す姿が描かれていますが、日本においてもこの「無意味な苦労」が美徳とされる場面がよく見られます。
しかし、カミュはこの無意味な労働を悲観的に捉えながらも、人間は自らの選択によって意味を見出すことができると提唱しました。
つまり、苦労することが目標ではなく、目標に向かって効果的に進むことこそが重要なのです。
楽をすることへの罪悪感とAIによる効率化の誤解
多くの日本人は、楽をすることに罪悪感を感じる傾向があるように思います。この背景には、「苦労しないと価値がない」という信念があるからです。
しかし、現代の技術、特にAIの導入によって、仕事の効率化や自動化がものすごいスピードで進んでいます。AIによって楽にできる作業は、あえて人間が労力をかける必要はないのです。
ケインズは『雇用,利子および貨幣の一般理論』において、テクノロジーの進化により、労働時間が短縮され、人々は「余暇を楽しむ社会」に移行する可能性があると述べています。楽にできることは、合理的に楽にやるべき。
楽にできることを楽にやるべき理由
もし同じ結果が楽に達成できるのであれば、その方法を選ぶべきです。それはもう、圧倒的に。
苦労や困難に意味を求めるのではなく、目標に対して効率的かつ合理的に進む方法を模索することが、現代社会において必要な考え方ではないでしょうか。
ベンサムの功利主義では「最大多数の最大幸福」が追求されるべきとされていますが、それは人々の苦痛を伴うものではなく、効率的に幸福を得るための手段です。
楽をすることは怠けではなく、効率を重視した選択であり、その結果として得られる幸福は何ら否定されるべきではありません。
繰り返しになりますが、苦労や困難そのものに意味はないんですよ。キルケゴールが言うように、人生は後ろ向きにしか理解できません。そして、人間は、前向きにしか生きられません。
苦労や困難が役に立つのは、後ろ向きに人生を振り返り、そこから教訓を得るときぐらいです。
まとめ
労働や苦労そのものを美徳とする時代は終わりを迎えつつあります。
成長には痛みが伴うこともありますが、間違ってもそれを「苦労しなければ成長できない」と誤解してはならんと思うのです。
社会の効率化が進む中で、「楽にできることを楽にやる」は、むしろ現代にふさわしい生き方と言えるのではないでしょうか。
苦労信仰を脱却し、合理的かつ効率的に目標に向かうことが、今、求められているに違いない──。