『人生を楽しむコツは「無駄を楽しめるかどうか」にある』
ChatGPTなどのAIサービスが急激に増加する中で、こうした考えが僕の中でより一層強くなりました。
つまり、今後、人類はだんだんと効率を求めること自体が難しくなっていくのではないかということです。
生物的に最も効率的な生活とは、とどのつまり「何もせずに過ごすことができる状態」です。
しかし、人間はそれを良しとしません。
なぜならヒトは、目的を持ち、それを達成することで喜びを感じる生き物だから。
たとえそれが叶わずとも、目的さえ持っていれば"生の実感"を得ることはできるはずです。
重要なのは、目的を持っていること。そして、目的を達成するために努力をしているかどうか、ということ。
真に焦点を当てるべきは結果ではなく、動機であり、プロセスなのです。
効率化はAIに任せておけばいい。
"飽きる"という呪い
生きるということは、結局のところ「飽きから逃れること」と言い換えても大げさではないのかもしれません。
人間は「できるだけ楽をして目的を達成したい」という性質を持っていますが、目的がないと退屈を感じ、ストレスを抱えることになります。
あなたも人生で一度ぐらいは『暇で氏にそう』と思ったことがあるでしょう。
そう。人間には頭では決して抗うことのできない"飽きる"という呪いがかけられているのです。
呪いを完全に祓うには、現在のところ人類をやめるしか選択肢がありません。
ただし、目的を持つことによって、呪いを軽減することはできます。
別に特別であったり、崇高な目的でなくとも構わないのです。重要なのは目的の大小ではなく、目的を持っているかどうかということだけ。
無駄な目的を持ち、無駄な方法でそれを達成しようとする中にこそ、本当の意味での人生の豊かさはあるのではないでしょうか。
何度もいうなよ そのムダが楽しいんじゃないか
漫画『ドラゴンボール』30巻 p.123 - 人造人間17号
もっと無駄を歓迎してもいい
何をもって無駄と呼ぶかにもよりますが、僕らはもっと無駄を歓迎してもいいんじゃないかなあと思うのです。
本屋の中を歩いていても、YouTubeのおすすめ動画を眺めていても、やれ効率化だの、やれ時短だの、そういった趣旨のタイトルが多いこと多いこと。
別に、効率的に生きることが悪いことだとは一切思わないし、誰かの生き方を否定する気も毛頭ありません。
むしろ、僕は自他ともに認めるサボリ魔で、飽き性で、怠惰を極めし者なので、どちらかと言えば他の人よりも効率化を求める傾向にあります。
常日頃「同じ時間を費やすなら、より効率の良い方法を選ぶべきだ」と思っているし、倍速でアニメを観ることもあれば、『面倒臭いなあ』と言いながらもプログラムを書いて単調な作業を自動化していたりもします。
ただ、僕自身、忙しさを豊かさと勘違いしているような節もあり、そこにどうしようもない違和感を覚えてしまうのです。
忙しい≠豊かな人生
あなたの周りにも「必要以上に自分を忙しくしようとしている、あるいは忙しく見せようとしている人」がいたりするのではないでしょうか。
それが果たして、本当に忙しいのか、それとも、自分を忙しく見せようとすることに忙しいのかは本人にしか分かりません。
ただ、本当に忙しいのだとしても、それを表に出すかどうかは本人の心がけ次第であり、間違っても、自分が忙しいからと言って他人にもそれを強要していいことにはなりません。
というより、忙しいか、忙しくないかの判断は本来「主観的なもの」であって、周りの人間がどうこう言えるものではないんですよね。
しかし、日本ではなぜか「努力」とかいう得体の知れない謎の概念がそこかしこに潜んでおり、神に匹敵しうるほどの影響力と信仰心を集めています。
努力は忙しいことと同義ではないし、忙しくしているからといって人生が豊かになるとは限らない。ましてや、忙しい生活を豊かな人生と錯覚してしまう事態は絶対に避けたい。
努力はあくまで目標に対する取り組み方であって、忙しいことは単なる時間的な制約──予定が詰まっている状態というだけのことです。
誰がいかに頑張っている雰囲気を醸し出せるか選手権大会会場
それでも、社会の至るところに「努力とは汗水を垂らして忙しなく働くことだ」という前時代的とも言うべき考えを持った人がいることもまた事実。
確かにそれは、場合によって一理ある考え方と言えるのかもしれません。
けれど、多くの場合、そういった考えを持つ人間が指揮を取ると、その組織あるいはコミュニティは緩やかに崩壊していき、肝心の成果よりも「誰がいかに頑張っている雰囲気を醸し出せるか選手権大会会場」になりがちです。
重要視されるのは実際の仕事内容ではなく、あくまで働き手の苦悶の表情であり、汗の一滴一滴であり、スペースキーやエンターキーの擦り切れ度合い──。これじゃあ生産性も何もあったものではありません。
歓迎すべき"無駄なこと"とは?
「誰がいかに頑張っている雰囲気を醸し出せるか選手権大会会場」と化す組織もある意味では"無駄の代表格"とも言える代物ですが、僕が歓迎したいのはそういう無駄ではないのです。
もっとこう、自分や自分の周りにいる人間、あるいは世界のどこかにいる誰かが笑顔になれるような、そんな無駄。
つまようじでホグワーツ魔法魔術学校を作ってみるだとか、バナナを彫刻してエッフェル塔を模してみるだとか、足でコントローラーを操作して最高難易度のバイオハザードをプレイしてみるだとか、そういう無駄。
──人生を楽しむコツは、無駄を楽しめるかどうかだ
アニメ『デッドマウント・デスプレイ』第7話 - 怪人ソリティア
無駄な時間、無駄な努力、無駄な散財
それを省くということは、究極的にはただ呼吸と食事と睡眠だけをする装置と成り果てることだ
ただ生きるだけなら人の持つ感情そのものが無駄とは言えないかね?
無駄を楽しみ、無駄を愛するということ
きっと僕らに必要なのは、芸能人の不倫報道でキャッキャッしたり、マイノリティを隔絶して優越感を得たり、他人の不幸をうしろ指をさして笑ったり、誰かの失敗を皆でよってたかってリンチするような類の"無駄なこと"じゃあない。
もし仮にそれらの無駄な行動で自分自身が心から喜びを感じ、楽しさや充実感を得られているのであればやめる必要はありません。
ただし、心のどこかで多少なりとも違和感を感じているなら、もっと自分が楽しめるような無駄なことをしたほうが賢明です。
無駄を楽しみ、無駄を愛する──。それが生きているという状態であり、人間という生き物の本来の姿なのではないのでしょうか。
つまり、この中身のない長ったらしい文章を最後まで読んでしまったそこの物好きのあなたは、間違いなく無駄を楽しめる貴重な存在ということです。
そして、このような無駄な文章を誰に頼まれるわけでもなく書き続ける僕は、あなたに無駄な時間を提供できたという意味で間違いなく幸福なのです。
無駄なことをするたび、人生の豊かさが1UP。ギターソロは飛ばすな。
何かを極めたいときは自分だけの「好き」を極める→人生の幸福度がアガる
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