数字とのバランスの取れた付き合い方を考える

「ケチャップの残りを出そうと容器を振ったら、フタが開いていて中身があたりに飛び散ってしまった」という瞬間を『50』としたら、「カップ焼きそばのお湯を切るとき、一気に麺まで流れてしまった」という瞬間は『75』ぐらいだろうか──。

一見、数字に置き換えられないようなことでも、人は、自動的に情報をカテゴライズし、"数"という枠に収めてしまう。それが、できてしまう。

日常の出来事さえもなんとなく数値化してしまうのは、もはや「人間の習性」と言えるでしょう。

完全に数字として置き換えられずとも、例えば、今日という日は不運と幸運どちらのほうが多かったか──、あるいは"貸し"や"借り"といった概念で、自然と「経験を数値化」して考えています。

数字はいつから始まったか

数字は、約6000年前のメソポタミア地方のシュメール人が発明されたと言われています。

しかし、人類は、それ以前から日常的に経験を数値化──というか概算していたように思えてならないんですよね。

──今から約1万年前、人類は「遊動」から「定住」を中心とする生活に移行しました。

農耕や牧畜などにより、安定して食料を得られるようになったことは、同時に「食料の備蓄」という概念に繋がります。つまり、財産という概念が誕生します。

備蓄や財産を管理するために、"数"は重要な役割を果たしたはずです。概算の能力は、人類が進化の過程で磨かれてきたと言っても過言ではありません。

数字に縛られる現代

現代では、概算の能力が人を縛る役割を担っている節もあります。

SNSの「いいね」やフォロワー数が人間の価値を表すかのように感じられ、資産の多さがその人の能力を示す指標として捉えられてしまう。

経験の概算や数値化は、便利であるがゆえに人を縛ることもある──。

人間はいつの間にか、数字によって行動や思考を制限されてしまっていたのかもしれませんね。

数字とのバランスの取れた付き合い方を考える

現代を生きる我々は、数字から完全に逃れることはできません。しかし、数字がすべてを決定するわけではない

重要なのは、数字に縛られすぎず、かつ頼りすぎず、自分自身の価値を他の基準でも見出すことなのではないでしょうか。

数字はあくまで一つの目安に過ぎない。人間の本質は、数字では測りきれないところにある──。

僕はそう思っているし、そう思いたい。現場からは以上です。

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