「断捨離・片付け=モノを捨てること」は間違い

断捨離という言葉ないしは思想は、もともと日本の仏教の影響を受けていると言われています。具体的には、仏教における「無執着」や「三毒」といった概念からの解放──。

  • 無執着:物や欲望、感情などに固執しないこと。物質的なものや一時的な欲望に固執することで苦しみが生み出される。
  • 三毒:貪(とん、貪欲)、瞋(しん、怒り)、痴(ち、無知や愚痴)。これらの毒は人々の心の平安を乱す原因とされる。

要するに、断捨離の思想というのは『不要な物や感情を手放すことで、心の中に平和や調和をもたらすことを目指すという仏教の教えに深く根ざしているもの』だと考えられます。


「断捨離」と「片付け」の違い

断捨離とは

断捨離は以下の3つの漢字から成り立っています。

  • 断(だん):不要なものや縁を断つ、つまり必要のないものや関係を断つという意味。
  • 捨(しゃ):物を捨てる、つまり不要なものを手放すこと。
  • 離(り):物や感情から離れる、つまり物質的なものや過去の感情などから自分自身を解放すること。

断捨離は、モノだけでなく、過去の感情や執着からの解放を意味することもあります。

物や感情の過多から解放されることで、心の中に余白を生み出し、新しい価値や経験を迎え入れるスペースをつくろうという考え方ですね。

つまり、断捨離とは哲学であり、生き方であり、思想のひとつと言えます。

片付けとは

片付けは本来「散らかっているモノや物事を整え、適切な位置や状態に戻すこと」を指すとされています。

また、慣用句の"片を付ける"のように、終結や完了の意味合いを持つこともありますね。

片付けは、断捨離と異なり、より具体的な手法や行動のことを示しています。

モノを捨てること=断捨離ではない

昨今の断捨離ブームを見ると、どうにも「捨」の部分にのみフォーカスが当たっていて「断」と「離」がおざなりになっている気がしてなりません。

断捨離は、断・捨・離の3つでワンセット。どれかひとつでも欠けてしまったら、それは"断捨離とは似て非なる何か"です。

むしろ、「捨」は断捨離のプロセスの始まりでしかなく、多面的な断捨離の中の一側面に過ぎません。

より大切なのは、断つこと、そして、離れること。

先程も言った通り、断捨離は生き方のひとつです。1週間で終わるようなものではないし、1年続いたからおしまいという類のものでもない。

つまり、断捨離を実践するためには「片付け」が不可欠であり、あらゆるモノやコトに対して「片を付ける」必要があるのです。

「モノを捨てること」は、その中での一要素であり、過程であり、通過点です。断捨離が持つ真の効果はもっと先にある。

モノを捨てると人は「痛み」を感じる

モノを捨てると、人はある種の「痛み」を覚えます。

具体的には、脳の損失回避に関連する部位が活性化することによって「不快感」や「ショック」を受けると言われています。

例えば、今、あなたの目の前で"あなたの1万円札"を10枚ほど破り捨てたとしましょう。

痛み、というほどではないものの、十中八九、ショックや驚き、嫌悪感、不快感を引き起こすはずです。

大小こそあれど、人は、モノを捨てるたびにこのような「痛み」を感じているのだとか。

そう考えると、モノを捨てることが苦手という人が多いのも納得できます。

現代人はもっと「痛み」を感じる必要がある

痛みは本来、自らを守るため、危険を避けるために備わっている重要な機能です。

ただし、痛みは「何かを失うとき」に感じるものであって「何かを得るとき」には感じないことがほとんど。

世の中には、自分にとって本当に大事なものを見失ってしまうほど、不要なモノやコトが溢れているのに。

ニュースやSNS、CM、広告──。不安、悲しみ、苦しみ、嫉妬、比較、劣等感、自己憐憫、戦争、対立、嘘──。

「痛み」が自己防衛のために存在しているのだとしたら、モノや情報の過多に対しても機能するべきだとは思いませんか?

──否、厳密に言うと機能はしているものの、その反応が非常に分かりづらいのです。麻痺している、と言い換えてもいい。

「じわじわした痛み」は放置されやすい

"スマホ疲れ"や"SNS疲れ"という言葉があるように「なぜか知らないけど調子が悪い」とは感じているはずなのです。

寝ても疲れが取れないだとか、何とも言えない不安感が消えないだとか、将来に対する悲観が拭えないだとか──。

「痛み」は確かに感じているはずなのに、今すぐに何か人生を変えないといけないと思うほど痛くはない。じわじわ、じわじわ、痛いだけ。

こうした痛みは、大抵、放置され、見逃され、蓄積していきます。『大した痛みじゃあない。直ちに影響はない。そのうち治るだろう……』と。

ところが、モノや情報の過多によるダメージは、ボディブローのように後から、じんわりと、しかし着実に、深く効いてきます。

「自分の人生にとって本当に大事なものってなんだっけ?」「自分がやりたいことってなんだっけ?」「自分が好きなものってなんだっけ?」

些末な問題や不要なもの、雑多な情報に覆い隠されて、本来大切なものに霧がかかって、よく見えない。ずっと、溺れかけている。何かに。

「痛み」をあえて引き受けることの重要性

現代人が一日に受け取る情報量は、江戸時代の人々の一年分、平安時代の人々の一生分に匹敵すると言われています。

それが本当かはさておき、それほど現代人は絶え間なく情報を摂取し続けているということですね。

ものを食べ過ぎるとお腹を壊すように、情報過多は脳と心に問題を引き起こします。しかし、怪我と違って血は出ない。いつだって後回し。

だからこそ、現代社会を生きる人々は、あえて「痛み」を感じる必要がある。

「断・捨・離」により痛みをあえて引き受けることで『モノを所有すること、あるいは情報を受け取ることは痛みを伴うものなのだ』と今一度認識する必要がある。

人生にとって必要なものをそうでないものをしっかりと区別し、時間やお金といった貴重なリソースを本当に大切なことに向けるためにも「痛み」を感じることは非常に重要と言えるでしょう。

捨てるべき、片を付けるべきはモノだけではなく、常識や固定観念、習慣であるかもしれないし、ずっと後回しにしていたこと、あるいは自分が今抱えているタスクかもしれない。

はたまた、SNSアカウント、ゲームアプリ、使っていないサブスクサービス、利用頻度に見合っていないスマホプランや動画サービスプラン、1年以上放置している本・ゲーム、年会費の高いクレジットカード、月に数回しか使わないポイントカードかもしれません──。

「痛み」は、一気に、大量に、徹底して断捨離を実践するほど大きく、確実にやって来ます。その痛みが大きければ大きいほど、今後の人生への影響度は大きい。

痛め、人類。