SNSとかいう危険ドラッグが民主主義をぶっ壊す理由

2024年1月──。僕は、X(Twitter)のアカウントを完全に閉鎖した。それはもう、一切の躊躇なく。

8年以上の利用歴があり、それなりにフォロワーも多かったため、正直、多少の後悔や哀愁の類を感じるかと思っていたのですが──。

いや、まったく。自分でも驚くほど、まったく。禁断症状すら出ない。むしろ、解放感さえある。

その理由はきっと、以前から僕の心に渦巻いていた「SNS=危険ドラッグ」という自説が十分に成熟し、確信に近いものになったからだろうと思っています。

SNSのダークサイド

SNSにも良い面があることは、僕自身、重々承知しています。教育・ビジネス・公衆衛生・社会支援・政治参加など、幅広い領域において貴重な役割を果たしていることは紛れもない事実です。

とはいえ、それを踏まえたとしても、やはり「SNSは潜在的なリスクが大きすぎる」と言わざるを得ません。なぜなら、SNSは民主主義をぶっ壊す可能性があるから。

いや、ぶっ壊すというより、劣化、あるいは正常に機能しなくなると言い換えたほうが適切かもしれません。もしかすると、時すでに遅し、かもしれませんが。

SNSが民主主義を劣化させる理由

1.人間の製品化

インターネットやソーシャルメディアが大衆化し始めた2000年代以降、以下の言葉がよく聞かれるようになりました。

If you're not paying for the product, then you are the product.
もしあなたが商品にお金を払っていないのなら、あなた自身が商品だ。

これはつまり、利用者は直接お金を支払っていないかもしれないが、彼らは、行動や認識の変化という形で"支払い"をしていると考えられる、ということです。

この「行動や認識の変化」は非常に小さく、日々の意識下でだんだんと起こるため、個人がそれに気付くことはほとんどありません。

利用者自身が無意識のうちに製品化されていると聞くと、おそらくほとんどの人が「いや、そんなことはない」と思うかもしれませんが、果たして本当にそうでしょうか。

実際、多くの無料オンラインサービスやソーシャルメディアプラットフォームでは、利用者のデータを収集し、それを基に広告やコンテンツをパーソナライズしています。

これは、より便利に──より使いやすく──なっていると解釈することもできますが、結局のところ、それすら「より儲けを出す」という目的のためと考えるのが妥当です。

もし仮に、すべての人々が幸福で、人間関係の悩みもなく、現状を受け入れ、人生に満足していたら、経済は回りません。人が幸福や豊かさを求め、製品やサービスにお金を落とすから経済は回るのです。

僕は少なくとも嫌儲主義者ではないし、資本主義社会において企業が儲けを追求するのはごく自然な行為で、当たり前のことと認識しています。そこに何ら問題はありません。

ただ、そのプロセスにおける利用者の行動や認識の変化には、間違いなく第三者──広告主など──の意図が含まれます。

広告主の目的は実に単純で「もっと儲けたい」ということです。そして、その目的のために、ユーザーの欲求を刺激、あるいは欲求そのものを作り出すのです。

もっと綺麗になりたい、もっと健康になりたい、もっとお金が欲しい、もっとデートがしたい、もっと美味しいものが食べたい、もっとモテたい──。

人は、幸福を求めて、様々な欲求を満たそうとします。しかし、そうした欲求のうち、自分が本当に、純粋な自己の願いとして、心の底から求めているものは一体どれほどあるでしょう。

欲求を満たして幸福になれるのだとしたら、世界はもっと幸福で溢れていてもいいはず。ですが、そうなってはいません。

その理由は、もしかすると他者から押し付けられた幸福だから、かもしれません。

2.幸福の再定義とアイデンティティの喪失

幸福とは何か。豊かさとは、安定とは、普通とは何か。それは、一体どうしたら手に入るのか──。こうした重要な問いを考える上で、SNSは邪魔な存在でしかありません。

一昔前──SNSが大衆化する──までは"幸福"というパッケージの中身がはっきりしていました。「これと、これと、これさえあれば、幸福な人生ですよ」という風に。

ところが、ソーシャルメディアが大衆化した今、その「幸福な人生パッケージ」の幻想が崩壊し、形骸化しつつあります。

ひとたびSNSを覗けば、そこには"自分よりも上の幸福"がずらりと並んでいます。容姿、収入、職業、環境、人間関係など、様々な形で人々は"上の幸福"に影響を受け、自分の幸福に疑いを持ち始めます。

これは言い換えれば、既存の「幸福の基準」を失ってしまったということであり、自分がどうしたら幸せになれるか、何が好きか、何がしたいか分からない状態に陥ってしまったということ、あるいは、アイデンティティ(自己同一性)を喪失した状態と言ってもいいかもしれません。

こうした状態は、物を売りたい人々にとってチャンスとなります。なぜなら「作られた幸せ」を売る好機だから。意図されたアイデンティティを押し付け、都合の良い自己像を植え付けられる絶好の機会だから。

物を売りたい人々は、人が欲しいと思ったものを提供しているのではなく、自分たちが売りたいものを並べ、その中から選ばせているだけに過ぎないのです。

3.ルサンチマン加速マシーン

Twitterのような中央集権型SNSでは、その性質上、自分の思想や考えに基づいた情報が集まりやすく、視野搾取に陥りやすいです。

こうしたエコーチェンバー(同調圧力のある閉じた情報空間)内では、似たような意見が反響し合い、異なる意見または視点が排除されがちになります。

結果、グループ内の意見が先鋭化し、極端になりやすくなり、ニーチェ風に言えばルサンチマン(怨恨、遺恨、復讐感情)、福沢諭吉風に言えば怨望(他人の幸福をねたんだり、うらむこと)が蔓延していくこととなるわけです。

こうした状況において、プロパガンダ1やデマゴギー1は非常に有効に機能します。

しかも、そういった行為を行なう者が、政治家や企業、マスメディアだけでなく、インフルエンサー、場合によっては一般人にまで広がっています。

これによって、極端な白黒思考、差別、偏見が助長され、自分の意見が「普通」や「常識」だと誤認しやすくなり、社会の「普通」や「常識」といった認識に歪みが生じていくのです。

民主主義の意思決定プロセスがぶっ壊れる

民主主義の根幹は、多様な意見・視点の交換によって、社会全体の利益となる決定が下される点にあります。

しかし、社会的議論が特定のグループの意見に偏ると、意見の多様性の欠如に繋がり、民主主義的な意思決定のプロセスがぶっ壊れます。

また、意見が極端化し、お互いの立場に対する理解が欠如すると、建設的な対話が困難になり、やはり民主主義的な意思決定のプロセスがぶっ壊れます。

要するに、中央集権型SNSは、社会全体としての「普通」や「常識」の多様性をぶっ壊す、民主主義破壊エコーチャンバーマシーンなのです。

Xで行われていることは議論ではなく、演説であり、YouTubeで行われているのは授業ではなく、興行に過ぎません。

文字が読めることと、文章を読み、その内容を正しく理解できることはまるで違うものです。

ウソをウソと見抜けない者にとっては、エンタメとしての陰謀論すら世界の真実となり得るのです。

結論「SNSやめよう」

そう遠くないうちにSNS──X、Instagram、Facebook、YouTubeなど──には何らかの形で規制が入ると思いますが、重要なのは、自衛です。

僕はビジネス用途でどうしてもSNSを使用しなくてはならないとき以外、まったくと言っていいほどSNS、というより、スマホ自体に触れません。

すべてのアプリは通知オフ、Xはタイムラインおよびリポスト非表示、YouTubeはおすすめ動画およびショート動画非表示、Instagram・TikTokはやっても投稿のみ、Facebookは抹消済み。

SNSを見ないようになってから、日ごとに思考がクリアになっている実感があるし、今まで自分がどれだけ認識を歪められていたか分かって、本気でゾッとした。

可能な範囲からで良いので、ぜひSNS(できればスマホ)の制限を検討してみてください。依存度が高い人ほど、自己や世界への認識の変化を楽しめます。マジで。