人はなぜ「悪」に惹かれるのか──。
その背景には、恐怖心や好奇心、興味、憧れ、嫉妬、支配欲など、さまざまな感情が渦巻いていると考えられます。
残虐な行為、悪意に満ちた振る舞い、あるいは象徴的な「悪」──。
例えば、ハンニバル・レクター、ジョーカー、モリアーティ教授、ダース・ベイダーなどの悪役、または実際に起きた犯罪事件を題材にした映画やサスペンス小説。
これらの「悪」は、ある意味、人間の内に潜む欲望や恐怖を代弁しているようにも感じます。それゆえ、人は「悪」に惹かれるのかもしれない。
悪役の魅力「自由で欲望に忠実な存在」
悪役を観察してみると、彼らは実に「自由奔放」で「欲望に忠実」です。
自分に対して決して嘘をつかず、自己の欲望に素直──という点が、人々を惹き寄せる大きな要因になっていると考えられます。
また、彼らは他人を裏切り、欺きますが、自分の欲望に対しては正直で、自らの「異質さ」を受け入れています。
こういった自己理解と美学が、彼らの魅力を高めているのかもしれませんね。
感情の極端さ
感情の極端さが際立つことも、悪役に共通する重要なファクターと言えます。
中には、ほとんど感情を持たないキャラクターも存在しますが、彼らの感情には往々にして、愛や憎しみ、嫉妬や怒りといった強烈なものがあります。
こうした二面性が、見る者にとって予測不能な魅力を感じさせている節もあるでしょう。
悪への憧れと人間の本質
人が悪に憧れる理由──。それは「悪」が人間の本質の一部だからかもしれない──。
人間には本来、抑圧された欲望や感情が存在しており、悪役がそれを代弁することで、人々は無意識的にその姿に共感し、惹かれてしまうのだと思います。
悪役は、他者には容赦なく嘘をつき、裏切り、欺くものの、自分自身には決して嘘を付かない。
彼らは自分が何者であるかを深く理解し、その「悪」を見事に正当化しています。そうした姿勢が、人間にとってある種の「自由」の象徴となっている──とも言えそう。
悪とは何か?境界線はあるのか
そもそも「悪」とは何か──。悪には明確な境界があるのか──。
視点や時間軸が異なれば、正義と悪は簡単に入れ替わります。歴史や文化の違いによって、ある行為が「正義」とされることもあれば、別の場面では「悪」とされることもある。
つまり、悪とは絶対的なものではなく、相対的なものなのです。
しかし、人々の中には、何かしら「悪」という確立したイメージが存在しているようにも思えます。
誰しも心の中に「悪の匣」があり、その匣に当てはまるものを「悪」と認識しているに過ぎません。想像できない悪を、悪として判断することはできない。
これは、人が選択的に悪を働いていないだけであり、状況によっては悪を行う可能性があることを示唆しています。
現代社会と悪
現代社会では、悪を働くリスクが利益を上回るため、多くの人が悪を避けています。
しかし、もしも社会的な目がなく、悪事が露見しても罰を受けないとすれば──。もしかすると、多くの人が悪に走るかもしれません。
この仮定は、悪が本質的に人間の一部である可能性を示すものでもあるように思います。もっとも、状況によっては悪の定義が変更されることもあるでしょうが。
結論
- 悪に惹かれる理由は、それが人々の内なる欲望を代弁し、ある種の自由や自己の理解を象徴しているから──と考えられる
- 悪役──ヴィラン──はその究極の表現であり、彼らを通じて、人々は自分の内に秘めた抑圧された感情や欲望に気付くのかもしれない
- 悪は人間の本質の一部であり、人々はそれに無意識に引き寄せられているのかもしれない
- 悪役や犯罪に対する興味は、単なるエンターテイメントの枠を超えて、人間の内面にある"何か"を映し出す鏡のような存在となっている