感想に正解はあるのか?現代社会の「正解主義」による弊害

感想という言葉を辞書で調べてみると、「ある物事に対して心に生じた、まとまりのある感じや考え。所感」と定義されています。

心というものは一人ひとり異なるのだから、当然、抱く感想も千差万別であるはず。感想には正解も不正解もなく、受け取ったものをありのままに表現するもの──。

しかし、現代社会ではその感想にさえ「正解」が存在するかのような錯覚に陥ることがよくあるように思えてならないのです。

感想に「正解」があるという錯覚

特にソーシャルメディアや日常生活において、自分の感想が評価の対象となり、それが「価値のある意見」かどうかが判断される傾向が見られます。なんというか、こういった現象は、幼少期に経験する無言の圧力から生じているのではないか、と思うんですよね。

例えば、将来の夢について大人に尋ねられた時、ある子どもがこんなことを言ったとします。

「僕ね、大きくなったら、すごい絵を描いて有名な画家になるんだ!それでね、石とか木でかっこいい彫刻も作るの。それに、人の体を勉強して、どうやって動いてるのか知りたいし、空を飛ぶ機械とか、早く走る車も作りたいなぁ。あと、大きな建物をデザインしたり、楽器を演奏したり、曲も作れるようになったら、すっごく楽しいと思うんだ!」

それを聞いた周りの大人はきっとこう言うでしょう。

「全部は無理だよ。どれかひとつに絞ろうね」

将来の夢とは本来、自由で、制限がなく、特定の職業に限らずとも、どれかひとつに絞らずとも良いものであるはずです。

実際、レオナルド・ダ・ヴィンチは「モナ・リザ」や「最後の晩餐」などの傑作を生み出した画家でありながら、宮殿や教会の設計に携わった建築家、飛行機や戦車などの発明品を考案した発明家、そして楽器まで作ってしまった音楽家、活躍した彫刻家でもありました。

彼のように多くの分野で成功を収めた人もいる中で、なぜ子どもたちは──僕たちは将来の夢をひとつに限定しなければならないのでしょうか。

なぜ子どもたちの「読書感想文」は評価されなければならないでしょうか。どんな感想を抱いたとしても、感想をアウトプットできただけで100点満点なのではないでしょうか。

幼少期からの「無言の圧力」が与える影響

こうした「無言の圧力」が幼少期から続くと、子どもの可能性が閉ざされてしまいます。大人の無意識な言葉が、子どもの感性や想像力を狭め、「これが正解だ」という考え方に縛られる原因になるのです。

この影響は成長してからも残り、自分の感想や意見を素直に表現することが難しくなる場合があります。現代の日本を見てみても、それは明らかであるように感じます。誰もが正解主義に囚われている──。作品への感想にでさえ。

ソーシャルメディアと評価主義

ソーシャルメディアでは、評価される意見=価値のある意見とされやすく、反応が多い感想は「正解」のように見なされがちです。しかし、感想とはそもそも個々の感じ方であり、それに正解や不正解を求めるのは不自然であると言わざるを得ません。

よく見かけるのは、人気のあるインフルエンサーや著名人──例えば、ホリエモンやメンタリストDaiGo、ひろゆきなどに対して、「今こういった状況で、これをやろうと思うんですが、◯◯さんならどうしますか?」みたいな質問を投げかける人たち。

確かに、彼らの意見や思考プロセスは参考になるとは思いますが、成功や失敗の要因はその人固有のものであり、費やせる時間や資金、経験、資質、興味関心、体力などの要素も異なるはずです。

それなのに「正解」を求める不安が影響し、誰かの意見をそのまま模倣してしまう──。

これは控えめに言っても異常な状態であり、もしかすると、ずっと日本で育ってきた人間ならば誰しもが少なからず抱えている同調圧力、あるいは正解主義という名の呪いなのかもしれません。

映画やアニメに対する感想の多様性

映画やアニメの感想においても、ある人はキャラクターのやり取りに感動し、ある人は作品の世界観に魅了されることがあります。例えば、僕は今季──2024年夏──のアニメでは特に「逃げ上手の若君(以下、逃げ若)」と「負けヒロインが多すぎる!(以下、マケイン)」が気に入り、面白かったと感じました。

しかし、僕はどちらかというと、ストーリーや登場人物同士のやり取りというよりかは、作品全体が持つ世界観や各キャラクターの要素としての個性に興味があるようで、「マケイン」のようなラブコメ作品において「誰が誰を好きでどんな感情を抱いているのか?」といったことにはあまり関心がありません。

ところが、これがミステリーやサスペンスになると、途端に登場人物同士の関係性が気になり、相関図を見ながら、「どういった心理によって犯罪に走ってしまったのか」「どういった因果関係があって事件が起きてしまったのか」などとあれこれ考察し始めたりします。

そう、僕はおそらく、ラブコメ作品は見るが、恋愛要素にはあまり興味がないタイプの人間なのです。

このように、映像作品ひとつ取っても、観る人によって抱く感想は様々で、作品の世界観、哲学、思想、カメラワーク、尺、ストーリーの展開、音楽など──どこをセンターに据えて、作品をどう評価するかは、まさに観た人の数だけ存在すると言っても過言ではありません。

作品を通じて感じたことはすべて感想

感想とはつまり、作品に触れて心が動いた瞬間の反応なんですよね。そして、その反応は、人によってまったく異なるものです。感想は感想であり、それ以上でもそれ以下でもない。

もちろん、出てきた言葉に何か道徳的、倫理的、危険思想的な気配が漂っていることもあるでしょう。とはいえ、誰がどういった趣味趣向や主義主張を持っているのかという話と、誰がどういった感想を抱いたのかという話は別物です。感想は感想でしかないのです。

また、作品を通じて思い出したことや関連する情報、仮説なども立派な「感想の一部」です。

例えば、僕は「逃げ若」から『全編を通して映像に手ブレの演出がされていたな』という気付きを得て、『そういえば、他の映画でもカメラがゆっくりと演者にズームインされていく演出を観たことがあるな』と思考がジャンプし、『もしかしたら、それが視聴者の集中を維持するための工夫になっているのかも』という仮説を持つに至りました。

ここから、『最近だと、Netflixドラマ「モンスターズ:メネンデス兄弟の物語」の第5話にがっつりその演出が使われていたな』と思い出し、『いつか自分が映像を作る機会があったときは、手ブレやゆっくりズーム手法を試してみよう』といった手札が手に入ったわけです。

また、手ブレを入れることで古い時代の映像作品を彷彿とさせる演出にもなっていて時代物としてもマッチしていましたし、このことから「逃げ上手の若君」のおおよその視聴者層を予想することもできますよね。

他にも、『マケインのヒロイン・八奈見杏菜はよく食べる女の子だな』という感想から、『そういえば、プリキュアたちもよく食べるが、その理由は「視聴者の女の子たちが真似してご飯を食べなくなると良くないから、プリキュアたちはよく食べるし、ダイエットしない」とプリキュアシリーズのプロデューサー・鷲尾天が言っていたな』ということを思い出したり。プリキュア観たことないのに。

このように、何か、作品に触れて心が動いたり、なぜそう思ったのかを考えたり、まったく別の何かを思い出したり──。そうした思考のプロセスこそが感想であり、人間らしさなのではないかな、と。

今後、AI技術が発展していく時代においては、こうした人間的な話の脱線、蛇足、脳内に迸る僅かな刺激によって引っ張り出される記憶などが貴重になっていくような予感さえしています。

とはいえ、作品から何かを得ようと躍起になってしまうとそれはそれで違うと思うので、あくまで気負わずに作品に触れてみることが大切なのだと思います。

参考:『モンスターズ:メネンデス兄弟の物語』が映し出す心理的葛藤と法の限界【ネタバレ感想】

感想と自己表現の自由

感想は感情の反映であり、自己表現の一部でもあります。どんなに奇抜な感想であっても、それがその人の正直な感情であるならば、そこに正解や不正解は存在しません。

だから、感想なんてなんでもいいんですよね、きっと。

映像作品だけに限らず、何かに触れて抱いた感情、心が動いた理由、想起される記憶、それによって導き出される仮説──など、それらすべてが紛れもない本物の感想なのです。

ビートルズやシェイクスピア、橋本環奈など、どこか手放しで褒め称えなければならない雰囲気を持つ対象でも、別に自分が気に入らなきゃ「気に入らん」でいいのです。僕自身、実写版「キングダム」で橋本環奈演じる河了貂を見るまで、橋本環奈の演技はどこか受け入れることができませんでした。いったい何の話でしょうか。

正直に言うと、僕は今まで感想を言うことに不安や恐怖を抱いてきた節があります。自分の意見──と言い換えてもいいかもしれません。それは心のどこかに「正解主義」があり、自分が何か変なことを言っているんじゃないか、他の人とは異なる考えや見方をしているんじゃないか、という無意識レベルで心に蔓延っていた信念が原因だったように思います。

しかし、感想は感想。僕が何をどう思おうと、それは紛れもなく僕自身の感想。そこに偽りはなく、また、正解も存在しない。

ということで、これからも軽率に感想を吐き出していきたいなと思います。