Twitterであるツイートが話題になっていました。
うつ病の人は一般的に「なんでもネガティヴな捉え方をしてしまう病気」だと言われているけど、本当は「自己認識が正確すぎてポジティブな勘違いができなくなる病気」という説を聞いて震えてる。健康な人のほとんどが自分は平均以上の能力だと勘違いしてるだけでうつ病の人の世界が現実の世界だとか…
— じゃどさん (@judsan12) June 10, 2023
要するに「うつ病とは、現実をネガティブに見てしまう病気ではなく、ポジティブに見られない病気なのではないか?」ということ。
ネガティブに捉えてしまうことと、ポジティブに捉えられないこと──。実は、これらは似ているようで非なるものです。
「コップ半分の水」の捉え方
例えば、目の前にひとつのコップがあり、水が"半分"入っていたとしましょう。
こういったシチュエーションにおいては「コップに"半分しか"水が入っていない」と考えることをネガティブな思考、「コップに"半分も"水が入っている」と考えることをポジティブな思考と捉えることが一般的です。
そして、世間では「ネガティブなのは悪いことであり、ポジティブなのは良いことである」という観念があたかも正義であるかのように跋扈しています。
しかし、よくよく考えてみると、半分の水が入ったコップを必ずしもネガティブ or ポジティブの2択で考える必要はないのです。
つまり、この場面においての選択肢は以下の3つ。
- コップに"半分しか"水が入っていない=ネガティブ(悲観)
- コップに"半分も"水が入っている=ポジティブ(楽観)
- コップに"半分"水が入っている=ニュートラル(中庸)
「ネガティブに捉えてしまうこと」は①しか選択肢がない状態であり、「ポジティブに捉えられないこと」は①と③の選択肢がある状態だと定義できます。
精神的に健常とされている人々は、意識的にしろ、無意識的にしろ、常にこれら3つの選択肢が用意されています。
ですが、うつ病とされている人々は、『現実』をありのまま(=中庸)受け取るか、ネガティブ(=悲観)に受け取るかの2つしか選択肢が用意されていないのです。
「現実」とは何か?
ここで一度、「現実とは何か?」について考えてみましょう。
この問いに対する答えとして僕が気に入っているのは、森博嗣のミステリー小説『すべてがFになる』における萌絵と犀川のやり取りです。
「先生……、現実って何でしょう?」萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」犀川はすぐ答えた。
「普段はそんなものは存在しない」森博嗣 (1998) 『すべてがFになる』,講談社,p.357
現実とは「現実とは何か?」と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想──。
仮に今、この瞬間に自分自身が現実として捉えている世界を「現実」と呼ぶとしても、五感を通して入ってきた情報は、すべからく「脳」によって処理されています。
極端な話、「現実とは、極わずかな電気信号の入出力によって創り出された虚構である」とも言えるのです。
脳は、実世界と脳の中の仮想世界の差分を更新している
国際電気通信基礎技術研究所(ATR)の川人光男先生らが提唱した「生成モデル」によると、脳は、実世界と脳の中にある仮想の3次元空間から得られた情報の差分のみを更新しているのだそう。
つまり──、
- その人自身を取り巻く3次元世界に対し、眼球や皮膚などのセンサーから得た圧縮情報をもとに「仮想の3次元世界」を再構成
- 脳の中に再構成された「仮想の3次元世界」においても、仮想の眼球や皮膚で捉え、仮想の圧縮情報を得る
- 実世界から得られた圧縮情報と、仮想世界から得られた圧縮情報の「差分」によって情報の更新を図る
という一連の流れを辿っているんですね。
ちなみに、脳のエネルギー源はブドウ糖のみであり、人間が一度の食事で体内に蓄えられるブドウ糖の量は約12時間分とされています。
五感から得られた情報をありのまま受け取って出力しているのだとするとあまりにエネルギー効率が悪いため、脳の中に世界モデルが構築されていると考えることは自然な流れと言えそうです。
人は、見たい現実を見ている
ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)曰く、人は、見たいと思っている現実しか見ていません。
人間は誰しも自分が間違っているとは思いたくないものであるし、自分が信じているものが正しいものだと信じたい生き物なのです。
これは俗に言う「確証バイアス」というもので、分かりやすい例としては以下のようなものがあります。
- メディアにおける確証バイアス:自分の意見と一致する情報を提供しているメディアを好む傾向
- 宗教的な確証バイアス:特定の宗教や信仰体系に基づき、自分の信念を裏付ける情報を求める傾向
- 個人の経験に基づく確証バイアス:過去の経験や個人的な成功体験に基づいて、自分の意思決定や信念を正当化する傾向
人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。
塩野七生 (2004) 『ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上)』,新潮文庫,p.5
ここまでのまとめ
ここまでのまとめです。
- 「ネガティブに捉えてしまうこと」と「ポジティブに捉えられないこと」は似て非なるもの
- 脳は、実世界と脳の中の仮想世界から得られた情報の差分を更新している
- 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない
もう一度、最初のツイートを見てみましょう。
『うつ病の人は一般的に「なんでもネガティヴな捉え方をしてしまう病気」だと言われているけど、本当は「自己認識が正確すぎてポジティブな勘違いができなくなる病気」という説を聞いて震えてる。健康な人のほとんどが自分は平均以上の能力だと勘違いしてるだけでうつ病の人の世界が現実の世界だとか…』
これまでの話をもとに再考してみると、「うつ病はポジティブな勘違いができなくなる病気」という点は、ポジティブ(楽観)な思考が奪われている──ニュートラル(中庸)とネガティブ(悲観)しか選択肢がない──状態であると言っても過言ではなさそう。
また、「健康な人のほとんどが自分は平均以上の能力だと勘違いしてる」という点についても、カエサルの『 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。』という言葉から、あるいは確証バイアスなどの心理的作用によってある程度は説明がつきそうです。
おおよそ同意見と言えますが、"自己認識が正確すぎて"という部分については少し議論の余地があるように感じます。
人は現実を現実として知ることができない
人間は自分の知覚によってしか物事を捉えることができません。知覚には限界があり、主観的なものであるため、僕らはどう頑張っても真実の現実の姿を完全に理解することはできないのです。
確証バイアスだけに限らず、人はそれぞれ異なる経験やバイアスを持っていて、個々の視点からしか世界を見ることができません。
皆が等しく認知していると"される"「現実」もまた主観的なものであり、人々の捉え方によって異なる解釈が生まれるのは至極当然。
このことは「現実とは何か?」という話からもお分かりいただけるかと思います。
確かに、「自分は平均以上の能力を有している人間だ」と勘違いできる人を『健康』と定義するのであれば、うつ病というのは「ポジティブな勘違いができなくなる病気」と定義しても良さそうではあります。
とはいえ、前述した通り、現実はあくまで主観的なものであり、自己認識においても同様のことが言えます。
正しい、正しくないという話であれば、うつ病だろうが、統合失調症だろうが、健常者だろうが、その人が見ている世界こそが正しいものであり、現実そのものなのです。
それ以上でもそれ以下でもない。そこには正義も悪もないし、正常と異常の境界線もない。ただ、存在しているだけ。
現実に対して意味づけを行ったり、ストーリーを加えたり、レッテルを貼るのは、他でもない"人間"です。
ただ存在しているものに何らかの意味を持たせないと生きられない──。哀しいかな、それが人間という生き物なんですね。
まとめ
そもそもの話として、経験やバイアスによって人それぞれ異なる世界モデルを脳の中に構築しているのだから、なんでもかんでも二元論的に考えること自体がおかしいと思うのです。
うつ病ひとつ取っても症状や調子の波には個人差があるし、性別や性的指向、思想、文化に関してもグラデーションが存在しています。
ただ、社会にとっても、個人にとっても、カテゴリーやパッケージはおおまかであるほうが選びやすいし、分かりやすいし、分類しやすいし、操作しやすいし、洗脳しやすいし、誘導しやすいし、分断しやすいし、隠しやすい。
だからこそ人は、つい中庸の道を忘れてしまいがちだし、マイノリティを忌避しがちだし、誤った情報に扇動されてしまいがち。差別や偏見は無知から始まる、とはよく言ったものです。
僕もバイアスにまみれた人間の一人に過ぎないけれど、いろいろな人がいて、いろいろな考えがあることを理解した上で、中庸的な生き方を心がけていきたいものです。